寺社探訪

寺社探訪とコラム

「荒川 百所巡礼 22」

埼玉県大里郡寄居町を歩いています。寄居町観光協会が素晴らしく、観光地としてレベルが高いです。

目次

松本幸四郎の別荘跡

こちらは雀宮公園と言いまして、七代目松本幸四郎の別荘跡地とのこと。私の世代で松本幸四郎といえば、松たか子の父親の九代目松本幸四郎が印象深いですが、現在は十代目の松本幸四郎がいらっしゃいます。しかし、有名人の別荘地にしては、突飛な場所な気がします。軽井沢とか那須とか葉山とかがメジャーですが、七代目松本幸四郎さんは、情報に左右されないかなりブッ飛んた人だったのかもしれません。

公園内は広々としています。七代目松本幸四郎は明治3年(1870年)生まれで、現代の市川團十郎家も七代目松本幸四郎の子孫にあたります。別荘は「雀亭」と称して、昭和初期まで存在していました。この( ↑ )東屋は雀亭を模して造られているそうです。手前の石板は十代目松本幸四郎座右の銘である「守破離」の文字が刻まれています。

雀宮公園の庭から見た正喜橋です。雀宮公園の庭には紅葉がたくさん植えられていて、今は鮮やかな緑ですが、秋には素晴らしい紅の庭になると思われます。

こちらは逆に正喜橋から見た荒川です。左の崖の上が雀宮公園の庭から撮ったポイントです。遠くに見えるのは東武東上線の荒川橋梁です。正喜橋は橋桁2本ですが、そもそもは吊り橋だったそうです。川幅日本一とかで、長ーい橋ばかりでしたが、川の様相はまったく違っていますね。

 

鉢形城跡公園を歩く

ここは鉢形城の慰霊碑です。基本的に慰霊碑的なものはカウントしない方針です(例外あり)。鉢形城は戦国時代に関東を支配していた北条氏の城です。北条氏は豊臣秀吉に対抗した勢力で、ことごとく敗戦してしまいます。この鉢形城も豊臣方の多勢に無勢を覆すことはできませんでした。この慰霊碑は地元の有志によって建立されていますが、その時北条方として戦った子孫たちが多いようです。寄進を示す石碑には、〇〇守の子孫とか、児玉党とか丹党とか当時の役職や勢力を付けているものが多くありました。

城趾は公園になっています。これは模型です。このような城は平城というそうです。私は戦国マニアではありませんし、城趾マニアでもなく、あまりときめかないのですが、せっかくなので見ていきましょう。

かなり広い公園です。城跡なのでなにか建物がある訳ではなく、原っぱになっています。ここに何かあったのだろうなとか、塀で囲われていたのだろうなということは、容易に想像できます。虎口とか郭とか、工夫を知ると面白いですよね。

 

荒川 百所巡礼 第170番 城山稲荷神社

中に鳥居がありました。この赤い鳥居は稲荷神社ですね。結構参道は長くて、この先に二之鳥居、三之鳥居が続き、社殿前に立派な鳥居がもう一つありました。

こちらが社殿です。周囲より少し高い位置にありました。おそらく後付された社殿で、城内にこのように祀られていた訳ではないと思います。

このあたりは三の丸跡となっていました。この公園は広々していてきちんと整備されているので、もう少し涼しければ散歩にちょうど良い感じです。公園内には鉢形城歴史館があるので、本気で興味のある方はそちらをお楽しみいただけます。

 

荒川 百所巡礼 第171番 諏訪神社

公園内にもうひとつ神社がありました。戦国時代末期に、鉢形城の家老となった諏訪部遠江守か、長野の諏訪神社から勧請したのだそうです。落城して北条家がいなくなったも、信仰はこの地に根付いたというおはなしです。近隣の八幡神社を合祀した歴史があるそうです。

 

山と畑と民家と私

荒川 百所巡礼 第172番 立原庚申塔

公園を出て大きめの通りを歩きます。GWだったので、長瀞方面に向かう車がたくさん走っていました。山と畑と民家が続く道端に庚申塔がありました。

 

荒川 百所巡礼 第173番 折原庚申塔

暫く歩くとまた庚申塔やらの石塔群がありました。原型が何だかわからないものもありますね。

石塔群の前に道路元標が半分埋まっていました。この、埋まった道路元標というのは珍しくないのですが、どうして掘り出さなかったのでしょうか。ところで、民家と畑が点々とある中を歩いていると、私の自意識過剰かもしれませんが、住民の方々が私を見てどう思うのか気になってしまいます。家が数件しかない路地の奥にひとりで入って行って、道端の祠に手を合わせて去っていくという、不審極まりない行動に思われます。

 

荒川 百所巡礼 第174番 白髭神社

そんな路地の奥に白髭神社があります。この路地でも洗車している住民の横を不審者(私)が通り過ぎて行きました。全国の白髭神社の総本社は、琵琶湖の水の中に鳥居が建っている風景でお馴染みの滋賀県琵琶湖畔の白髭神社です。猿田彦命を祀っています。

七福神がありました。七福神は仏教由来の神で、仏教以前にインドで信仰されていた神様を仏教が取り込んで習合し、それが中国を経て日本に入り、日本でも神道と習合して様々に姿を変えてきました。

お参りする人が少ないので、雑草が参道を埋め尽くしています。周囲の木々と同化して、緑の社殿と呼ぶに相応しい感じがします。秘境感がでますね。

ここに遙拝所と書かれた細い石塔が建っていました。一体どこな遥拝所なのでしょうか。既に秩父の山々が迫っているので、山を御神体に見立てているのか、山の中に白髭神社の奥宮があってその遙拝所なのかと思いました。それとも秩父を代表する三峯神社の遙拝所かなとも思いました。

 

荒川 百所巡礼 第175番 地蔵尊・二十二夜

畑の中にぼつぼつ民家があるエリアを歩いていると、お地蔵様と二十二夜塔がありました。二十二夜塔は、室町時代から行われている「月待信仰」という日本の民間信仰で、仏教と習合しています。月齢に合わせて講中で集まり、飲食や経を唱えて災悪を払うという民間信仰です。二十二夜のみならず、十三夜、十五夜、十八夜、二十三夜、二十六夜など、他にもたくさんあります。それぞれ微妙に意味合いが違うそうです。

荒川 百所巡礼 第176番 真言宗智山派 常光寺

凄腕の寄居町観光協会が選定した「武州寄居七福神」という巡礼コースがあり、その大黒天を担当する常光寺です。

門の前にお堂が建っています。こちらは地蔵尊です。延命地蔵尊だそうです。横に二宮金次郎も像が建っています。

二宮金次郎の前には天満宮の祠があります。真言宗らしく神仏習合の様相の寺院です。しかし、二宮金次郎菅原道真ですから、ゴリゴリのスパルタ教育ですね。

門を入ると横長の本堂が建っています。結構大きな本堂です。ろうそくが奉納できるようになっていました。由緒などはわかりませんでした。

こちらは弘法大師です。修行姿なので、修行大師と呼ばれることもあります。

こちらは道祖神です。道祖神は路傍の神として、村の入口や辻󠄀(交差点)に置かれ、村内に悪いものが入らないようにしたものです。庚申塔や月待塔も同様の設置のされ方です。中国の道の神様(道祖)と日本の民間信仰が集合したもので、村の繁栄を願うためか、男女の神が手を取り合う姿の石碑が多くあります。

そしてひときわ異様な色の大黒天です。武州寄居七福神はどの寺でもこのタイプなのだそうです。

本堂の裏には奥の院があって、これは境内の外の川を挟んだ道路から撮影していますが、弘法大師らしき石像が見えます。

 

荒川 百所巡礼 第177番 佐太彦神社

天長元年(824年)の創建とのこと。佐太彦という名は、猿田彦と同じと見做されています。先ほどの白髭神社猿田彦命を祀る神社なので、何か繋がりがあるなかもしれません。

楽殿があります。この神社のお祭りは川瀬祭と言いまして、神輿を担いで荒川の中まで入って行って川の中に設置された神座に安置して、祭礼を行うというものです。保存会による神楽も奏上され、寄居町の部分無形文化財に指定されています。

生成りの社殿は質素に見えます。猿田彦命は、日本神話に登場する神様です。天の神、地の神で言うと地の神です。天を司る神である天照大御神が、地も支配するために孫の瓊瓊杵尊を地に送ります。日本神話の天孫降臨という有名な場面です。その時に案内役となったのが猿田彦命というお話です。そのために猿田彦命は道案内や旅の神様として祀られているのです。

この佐田彦神社にも同様の細い石塔が建っていて、遙拝所となっていました。一体何を遥拝するのでしょうか。謎が更に深まります。

 

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