寺社探訪

寺社探訪とコラム

「荒川 百所巡礼 23」

東京都江東区東京ゲートブリッジからスタートして、現在は埼玉県大里郡寄居町に辿り着きました。史跡を巡り、山と畑と民家の間をクネクネと歩いています。

目次

踏ん張って

荒川 百所巡礼 第178番 真言宗単立 西林寺

本堂のみで、常駐の住職さんもいないと思われます。墓地がありますので檀家さんがいますから、寺院として運営されています。本堂の扉にそのあたりのことが書かれた紙が貼られていました。この付近の真言宗寺院六カ寺の檀家の連絡会を作っているそうです。おそらく住職さんはひとりで六カ寺を運営しています。

当ブログで「寺院消滅」という書籍を紹介しましたが、過疎化が進むと、この先六つの寺院の維持にかかる負担に住職も檀家も耐えられなくなってきます。そうなると墓地を残して廃寺化していき、六カ寺は1つに集約されていきます。更に人口減少が進むと、集約された最後の寺院も廃寺となり、墓地のみが残ります。残った墓地は利用者たちが組合を作って管理し、法要には別の地域の寺院にその都度お願いするようになります。

淋しい展望ですが、既に住職がひとりに集約され、檀家組織も1つに集約されています。更にこの六カ寺は単立寺院となっていて、包括宗教団体(真言宗)との繋がりを捨てています。単立寺院になれば本山や宗務局の了承なく寺領を処分することができます。ギリギリのところで踏ん張っているのもしれません。

と、余計なお世話に頭を悩ませながら晴天の自然の中を歩いています。橋が2つ重なるように見えています。そこに荒川があるのわかります。これから私が渡る右側の白い橋は折原橋です。左の赤い橋は国道140号のバイパスが通る末野大橋です。ついに橋桁のない橋が登場しましたね。

折原橋の上から撮影しました。末野大橋の向こう側は玉淀ダムになっています。真ん中の水門が少しだけ開いています。間近に行けるか近づいてみましたが、途中から立入禁止になっていました。

 

荒川 百所巡礼 第179番 庚申塔・二十三夜塔

石碑や石像がまとめられていました。このあたりは国道140号線=彩甲斐街道が秩父鉄道沿いに走っています。荒川から彩甲斐街道と秩父鉄道を横切って渡ります。彩甲斐街道には歩道がなくて危険なので、1本隣の住宅地の道を歩きます。

 

荒川 百所巡礼 第180番 庚申塔・甲子塔・馬頭観音・弁財天

その道沿いにまた石碑と石仏が並んでいました。甲子塔は珍しいですが、庚申塔と成り立ちは同じです。十干(甲、乙、丙、丁……)と十二支(子、丑、寅、卯……)の組み合わせを干支(えと)と言います。組み合わせの最初は甲と子なので、甲子と言います。十と十二がそれぞれ1つずつ進みながらの組み合わせになるので、最小公倍数の60進むと一周して甲子に戻ります。60日に1度の甲子の日に集まって飲食や読経をして過ごしていた記念碑という訳です。

 

再び右岸へ

荒川 百所巡礼 第181番 末野神社

広い境内の神社が現れました。末野神社は近隣の数多くの神社が1つに合祀された神社ですので、何をお願いしてもほぼ担当してくださる神様がいるのではないかと思われます。稲荷社だけで10社近く合祀されています。

ここまで見てきた近隣の神社に比べると、社殿の造りが凄いです。やはり瓦屋根なのですが、精緻な彫刻がこれでもかという程にあしらわれていて、押し寄せてくる迫力があります。かつてこの地は須恵器の産地であり、鉢形城の城下町であり、秩父往還の宿場町でありと、相当に賑わっていたということが、末野神社の社殿の見事さに象徴されているように感じました。

更に歩いていますと、西行の戻り橋と呼ばれる橋がありました。荒川支流の逆川に架かる橋で、平安から鎌倉時代の僧で、歌人として名高い西行法師が当地を訪れ、子どもたちに質問すると、子どもたちが即興の難しい歌を容易く作って返して来たそうです。そのことを恥じた西行法師は引き返してしまったので、戻り橋と呼ばれています。

ここでまた荒川を左岸から右岸へ渡ります。こちらは寄居橋です。荒川河口から99.4kmです。このような形態の橋は、ニールセンローゼ橋と呼ばれるそうです。

荒川の様子は、清流的だった川が深い緑に変わっています。これは先ほど訪問した玉淀ダムの影響です。

 

荒川 百所巡礼 第182番 白髭神社

またも白髭神社です。猿田彦命を祀る神社が連続する歴史的な理由が、きっとどこかにありそうですね。この神社にお祀りされているのは猿田彦命なのですが、そもそもは白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)、つまり第22代天皇清寧天皇を祀った神社なのだそうです。余談ですが、日本神話を理解しにくくしている要因の1つに、この読めない長い名前があると思います。

こちらの神社は社務所に人がいて、御朱印や授与品などを扱っていました。清寧天皇は生まれつき白髪だったとのことで、それで白髭神社なのかと思いますが、当時は文献が少なくて伝承の時代と呼ばれています。当時から大和王権は関東から九州まで支配していたようですが、なぜここに祀られているのかはよくわかりません。

 

荒川 百所巡礼 第183番 真言宗智山派 伝蔵院

荒川の進路に金尾山という小さな山があって、荒川がうねって迂回しています。緩やかな坂道を進みますと、真言宗の寺院がありました。実はこのあたりから私の体調がおかしくなり、息も荒く気も遠くなってきました。伝蔵院の境内で二組の家族が楽しそうに遊んでいたので、境内には入らず、門の前で失礼しました。

金尾山は標高225mで、頂上に愛宕神社もあるとのこと。術後のリハビリにちょうど良いと思い、登ってみようと思うのですが、登り口がわかりません。ここかなぁと思いますが、階段の上は藪になっていました。

ここかとも思いましたが、入り口が塞がれていて入ることができません。緩やかな坂道を歩いていますが、本当に辛くなってきて、段々と気が遠くなってきました。

 

危険な散歩

ああ、ここですね。登り口に辿り着いたものの、整備された階段を上がる気力もなく、正面にあった駐車場で20分ほど座って休みました。座ると落ち着くのですが、立つと血の気が引いてしまい、意識が遠のいていきます。とりあえずゆっくり階段を登ることにしました。

しばらく横ばいに歩いて、ここから登りになります。少し歩いたところで、これは危ないと自覚しました。視界が塗り潰れていく感覚。入院中に気絶した時と同じです。その場でしゃがんで休憩し、引き返すことにしました。また駐車場にしゃがんで休憩しました。こんなに体力が無くなっているとは驚きです。高尾山くらいは登れる身体でいたいと思っていましたが、10分でギブアップでした。これは今後ちゃんとリハビリをして、自分自身で努力しなくちゃいけないみたいです。

さて、下り坂になり、息は楽になりましたが、それでもすぐに血の気が引いてしまって危ない状態です。バス停がないかと調べてみましたが、最寄りの交通機関はここから3km先の秩父鉄道樋口駅です。祝日だったので車はたくさん通っていますから、たとえ倒れても誰かが発見して何とかしてくれそうです。気が遠くなって意識を失いそうになる前にその場で休憩して、焦らずゆっくり歩きます。何とか坂を降りると、寄居町から長瀞町に入っていました。

下り坂の途中で荒川が姿を見せてくれました。ダムの影響も少なくなって、河原があって清流っぽくなっています。個人的には道行く車に助けを求める寸前でしたが……。後でこのときのペースを調べてみると、駅まで3km進むのに2時間かかっていました。

 

荒川 百所巡礼 第184番 白鳥通り祠

この道路は白鳥通りと言って、荒川左岸の彩甲斐街道の渋滞回避にちょうど良い道路です。どこかに白鳥の飛来地があるのでしょうね。通り沿いにある祠にしては、かなり立派です。

ここが何の土地なのかわかりませんが、石碑が2つ並んでいます。慰霊碑でしょうか。少し歩いては座って休むを繰り返しながら、ちょっとずつ進みます。

 

荒川 百所巡礼 第185番 鳥居

暫く進むと鳥居がありました。この先の山の中に神社があると思われますが、おそらくほぼ人が立ち入らない場所だと思います。草木が生い茂っていて、突入する気力が湧いてきません。

 

荒川 百所巡礼 第186番 真言宗智山派 満光寺

寺院が現れましたが、満光寺は無住の雰囲気です。この近くに道光寺という、いかにも関係の有りそうな寺院がありますが、満光寺は真言宗智山派で、道光寺は臨済宗妙心寺派でなので、関係ないと思われます。

寺の入口に古そうな二十二夜塔が建っていました。小さくても墓地はあるので、檀家がいて寺院として運営されていると思われます。住職はいなさそうなので、どこかの寺院の住職が兼任してるのでしょう。

近くの会社にこの( ↑ )オブジェがありました。鉄管やナットを扱う会社なのでしょうかね。遊び心があって良いですね。


荒川 百所巡礼 第187番 弁財天

道路沿いにぽつんと弁天堂がありました。お堂の前に猫がいたのですが、近づくと山の方へ走り去ってしまいました。私は基本的に野良猫を撫でたりはしないのですが、寺社の近くには人馴れした猫が多いと思い込んでいたので、何だか淋しくなりました。さて、駅までもう少しです。気力を振り絞って頑張りましょう。

 

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