寺社探訪

寺社探訪とコラム

市ヶ谷亀岡八幡宮

市ヶ谷亀岡八幡宮 目次

名称・旧社格

市谷亀岡八幡宮と称します。旧社格は郷社です。

創建

文明11年(1479年)、太田道灌江戸城築城の際に、西方の守護神として鶴岡八幡宮の分霊を勧請し祀ったことが創建の由緒となっています。

御祭神

誉田別命(ほんだわけのみこと)(=応神天皇

気長足姫尊(おきながのたらしひめのみこと)(=神功皇后

輿登比売神(よとひめのかみ)(応神天皇姫神

みどころ

小高い丘の上に境内があり、俗世間と遮断された神域を体験できます。境内は清潔感があり、絵画のような映画のような雰囲気があります。

アクセス

東京都新宿区市谷八幡町15

JR中央線東京メトロ有楽町線南北線新宿線「市ヶ谷」徒歩3分

 

探訪レポート

外堀通りから少し入ったところに入口と長い階段があります。このロケーションは港区の愛宕神社にそっくりです。愛宕神社の階段は「出世の階段」として有名ですが、市谷亀岡八幡宮の階段には、特に由緒はなさそうです・階段が難しい方には女坂もあります。

階段の途中に、赤い提灯に囲まれたスペースが現れます。赤が目に鮮やかで、心が躍りますね。こちらは茶ノ木稲荷神社と称します。そもそもこの丘は弘法大師空海が開山し、稲荷山と呼ばれていました。亀岡八幡宮よりも古い歴史のある稲荷神社なのです。江戸時代初期に、亀岡八幡宮がこの地に移転して来たということです。

御祭神は稲荷大神です。稲荷神は農業産物や商売、殖産興業に御神威があるとされていますが、こちらの茶ノ木稲荷は目の病気に対するご神徳が有名なのだそうです。かつてこの稲荷山に御神使の白狐が住み着いていたそうですが、ある時誤って茶の木で目を突いてしまったのだそうです。それ以来、信者は一定期間茶を断つという風習が生まれました。そこから眼病を患う者が一定期間茶を断って願えば、その願いが叶い回復するという伝説が生まれました。江戸時代の亀岡八幡宮は、別当寺であった東円寺と共に、大きく人々の信仰を集め、江戸時代に流行だった番付では、「全国稲荷番付」の前頭筆頭に位置していたそうです。

階段を上がると緑青の味がある鳥居がありました。文化元年(1804年)の建立です。柱に寄進者の名と職業が刻まれているそうです。職業まで刻まれるのは珍しいですね。新宿区内唯一の銅製の鳥居ということで、区の文化財に指定されています。扁額は播磨国姫路藩第3代藩主酒井忠道の筆による「八幡宮」の文字が記されています。何という字体かわかりませんが、個性的な字でした。

階段を上りきる寸前に金刀比羅宮がありました。讃岐の金刀比羅宮の分霊を勧請した神社ですから、ご祭神は大物主神崇徳天皇、大黒天です。特に分権は残っていないそうですが、江戸時代は讃岐地方からも江戸に多くの物資が海上輸送されていて、この地にも水路と荷上場があったそうです。そんな海運事業に従事していた方々がお祀りしたのではないかとのことです。

境内に上がりますと、右手に出世稲荷神社がありました。ここは元々稲荷山と呼ばれていたと書きましたが、稲荷山にはたくさんの稲荷社があったそうです。ある日、信仰の厚い侍の枕元に伏見の稲荷大神が現れ、「これまで以上に幣帛を奉り日参されよ」と夢のお告げがあったそうです。お侍は夢の内容に喜んで稲荷社に日参したところ、とんとん拍子に出世して、大名にまでなったとのこと。その後も出世の大明神とこの地に祀って参拝を続けたことから、出世稲荷大明神と呼ばれたそうです。成田山新勝寺の出世稲荷大明神は、この神社から分霊勧請したと伝えられています。ということは、当ブログでご紹介した深川不動尊の出世稲荷神社も、元々はここから勧請されたのですね。

出世稲荷神社の反対側には手水舎があります。竹筒から水がちょろちょろ流れるタイプの手水舎です。外国人の方が私が手を清める様子をじっと観察していたので、お手本にされると思うと少し緊張しました。特に何の変哲もない手水舎に見えますが、こちらも新宿区の文化財に指定されています。

というのも、こちらの手水鉢の台座に記されたこの「不」みたいな記号に、文化財的価値があるのです。明治時代に内務省が高低測量を行った際、イギリス人測量技師の指導の下に行われました。高さ(標高)を示す国家基準点を水準点と言いますが、現在は国土地理院が定めています。当ブログでも荒川土手にあった水準点を訪れています。当時のイギリス式測量方法で定められた水準点を几号水準点と言い、このように「不」に似た記号が刻まれることが特徴なのです。

社殿は戦国時代の争乱や江戸時代の火災で何度か全焼しては再建されています。直近では第二次世界大戦の空襲で全焼し、現在の社殿は昭和37年(1962年)の再建です。徳川3代家光の時代に最も隆盛を極めたそうです。家光の他、側室の桂昌院(5代綱吉の母)の寄進により3基の神輿が揃えられたそうです。桂昌院は、真言宗豊山派大本山である文京区の護国寺の発願者でもあり、智積院南禅寺唐招提寺と、全国の名だたる寺院を支えた功績は書き記しきれません。よく大火や戦争で失った文化的財産を思うと、残念極まりないと感じますが、それでも桂昌院の存在があったから、私たちは多くの文化的財産に触れることができているのだと思います。

「八紘一宇」の石碑です。これは思想的に難しいので解説しづらいのですが、私なりに受け止めているこの言葉の意味はこんな感じです。八紘一宇は日本書記に記された内容から生まれた言葉で、世界がひとつの家のように平和に暮らす様子を表現した言葉です。しかし日本書記ですから、そのひとつの家は天皇を長としいて、天皇が世界の唯一の「総帝」であるという意味に受け取れます。この言葉が第二次世界大戦中に日本のスローガンにしました。第二次世界大戦中の日本は、欧米の支配的脅威に対抗して「大東亜共栄圏」を築きたかったので、この「世界が一つの家のように平和に暮らす」という言葉「八紘一宇」を掲げて戦ったのです。日本は戦争に負け、GHQは戦争に関するものは全否定するように日本国民を教育しました。今でも第二次世界大戦の日本のことを、自国の黒歴史のように全否定する日本人は多いと思います。八紘一宇という言葉も、軍国主義か極右思想として敬遠されてきたと思います。

こちらは力石です。重さ(貫目)や名前が刻まれています。いろんな寺社に祀られていますが、縁日や例祭で力自慢大会って定番だったのですね。一番大きいのは百貫目(375kg)だそうです。こちらも新宿区の文化財に指定されています。

市谷亀岡神社は、ペットのご祈祷にも力を入れていて、様々なご神徳をいただいた事例があるようです。ペット用のお守りや護符も授与されていますので、気になる方は訪問してみてはと思います。

 

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