富岡八幡宮 目次
名称・社格
富岡八幡宮と称します。旧社格は府社で、准勅祭社に列せられています。東京十社のひとつです。
創建
寛永4年(1627年)、長盛法印が神託によって、永代島という地に永代八幡宮として創建しました。
御祭神
ご神徳
各種ご祈願に応じます。水子供養はしていません。
みどころ
勧進相撲発祥の地で、横綱・大関の碑があります。節分の豆撒きでは力士による豆まきがあり、力士の力にあやかった、五穀豊穣や健康を願う人が集います。一度に160人で担ぐという日本一の大きさの神輿があります。
アクセス
東京都江東区富岡1-20-3
探訪レポート
朱塗りの立派な鳥居をくぐって境内に入ります。境内は広々としていて、参道が真っ直ぐに本殿へ向かって伸びています。この辺りは深川と呼ばれる地域で、東京の下町っぽいイメージです。海を埋め立てた土地で、この八幡宮を中心に周囲の街が形成されていったので、富岡八幡宮の別当時であった永代寺の門前町ということで、門前仲町という地名になっています。
こちらは平成13年に建てられた、日本史の授業で習った伊能忠敬の銅像です。この辺りに住んでいて、測量の旅に出る際に富岡八幡宮にお参りしていたそうです。境内にある資料館にも、伊能忠敬の資料がたくさん展示されています。世の中の人のためになることを成し遂げた偉人はたくさんいますが、地図を作るというのはその中でもかなりのレベルだと思います。現在でも地図は進化して人々に利用されています。私は軽貨物ドライバーの仕事もしていますので、地図は必需品です。
神輿庫はガラス張りになっていて、中には一之宮と二之宮が安置されています。日本一の大きさと言いますが、本当に大きかったです。一之宮は屋根幅2.89m、高さは4.39m、重さが4.5トンで、160人で同時に担ぎ上げるそうです。これだけ大きな神輿を毎年担ぎ出すのは大変ということで、約半分サイズの二之宮が作られたそうです。江戸三大祭のひとつとされる「深川八幡祭」の際に活躍します。こんなに大きな神輿が作られたのは、江戸時代の豪商で有名な紀伊国屋文左衛門が富岡八幡宮に黄金の神輿を3基寄贈したのですが、関東大震災で焼失してしまったものを復活させようと、日本一の黄金神輿が作られたからだそうです。完成した時の動画を見つけましたので、掲載させていただきます。
しかし、大きすぎて代用品を作らなければならなくなるとは、どう評価すべきやら。江戸深川っ子の心意気ってやつでしょうか。
手水舎の前に、「天皇陛下御野立所」「昭和天皇 救国のご決断と富岡八幡宮」という石碑が建っています。東京大空襲の後、昭和天皇が被災地を視察したいと仰せられ、見渡す限り焼け野原であった深川に出かけられ、焼け焦げた富岡八幡宮の鳥居の前で車を降り「こんなに焼けたか・・・」と絶句して立ちすくんだそうです。そしてこのことで、終戦の決意をされたと言われています。
こちらは珍しい「願掛けの八角十二支石碑」というものです。願い事の種類によってそれぞれ指定された干支に触れることで、願いが叶うというものです。
手水舎には神輿の屋根についているような黄金の鳳凰がいます。ここで手口を清めて、階段を上がって一段高いところにある本殿の方へ向かいます。
火事や地震や空襲で社殿は何度と無く建て直されています。現在の社殿は昭和31年(1956年)に再建されたコンクリート製の重層型準八幡造という建築だそうです。色味としては朱というか、かなり鮮やかな赤です。八幡信仰ですので応神天皇(品陀和気命)を祀っています。
本殿左を奥に進むと横綱力士碑があります。勧進相撲発祥の地とされています。勧進相撲とは、寺社仏閣の修理維持するための資金調達のための相撲興行で、全国の寺社へ広がって開催されていました。元々相撲は神事として奉納されていたが、資金調達になることから、侠客の出入りや喧嘩など良からぬ方面もあって、禁止されたり復活したりして、寺社奉行に届出が必要になります。そうして全国的に統制が進み、現在の相撲協会主催の相撲へと繋がっています。
更に奥へ行くと境内社があるエリアになります。こちらは永昌五社稲荷神社です。御祭神は稲倉魂命(うかのみたまのみこと)です。五穀豊穣・商売繁盛の神です。近隣にあった稲荷神社が五社合祀されているので五社稲荷とのこと。
稲荷神社ですので少し短いですが千本鳥居が奉納されています。
集合住宅型の末社です。6部屋ありますね。この写真( ↑ )の両端の柱は、実は鳥居の足です。こちらは東京大空襲で破損したのですが、戦争の傷跡をわざと残すことで、その恐ろしさを伝えています。末社を左から順に説明すると、「祖霊舎・花本社」は富岡八幡宮の歴代の祖霊と松尾芭蕉を祀っています。「天満天神社」は菅原道真命を祀った天神さま。「聖徳太子社」は聖徳太子をお祀りしています。「住吉社」は航海安全・和歌・農耕の神。「野見宿禰神社」は野見宿禰命をお祀りしています。野見宿禰は日本書紀に登場する相撲の始祖とされています。「車折社・客神社」は清原頼業命と宇受売命(うずめのみこと)をお祀りしています。清原頼業は平安時代の儒学者で車折(くるまざき)神社の主祭神です。宇受売命は天宇受売命(あめのうずめのみこと)のことで、天照皇大神が天の岩戸に籠もったときに、踊り狂って周囲を笑わせ、その笑い声で天照皇大神に岩戸の扉を開けさせたという伝承の神です。
弁天池があります。朱塗りの橋や柵があって、風情がありますね。
こちらが弁天様です。七渡弁天と称され、この地に八幡宮が祀られる前から存在していた神様だそうです。御祭神は市木嶋姫命(いちきしまひめのみこと)です。少彦名命をお祭りする粟島神社を合祀しています。
さて、境内社エリアを回ってきましたが、全く触れないのも変なので少しだけ事件に触れます。かつてこのエリアの先に殺害された宮司の豪邸が建っていました。富岡八幡宮では醜い事件にまで達してしまいましたが、「マルサの女2」が実話を題材にしたように、事件周辺の危ういところで、色と欲を貪っている宮司や住職はそこここにいます。閉じた世界で世襲によって富と権力を得てしまうことが、いかに危険かと思い知らさます。
境内にいると、そんなことは無かったかのように思えますが、やはり思い起こすと素直に敬虔な気持ちにはなれなかったです。
本殿を挟んで反対側にも、境内社があります。こちらは深川不動尊側なので、こちらから出入りする人々も多かったです。左から「富士浅間社・金刀比羅社」「大国主社・恵比寿社」「鹿島神社・大鳥神社」となっています。どれも有名な神社なので説明は割愛します。
神社に祀られている神々は、宮司家とは別モノであるから、変わらぬ信仰が向けられるべきと思いますが、そのためにはまだ時間がかかると思います。一番の被害者はこの神社と共に何世代も生きてきた深川の人々なのだと思います。せめてお祭りが開催できて、あの大きなお神輿を団結して「わっしょい」できればいいんですけどね。
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