穴澤天神社 目次
名称・旧社格
穴澤天神社と称します。旧社格は郷社です。
創建
孝安天皇4年(紀元前389年)
御祭神
少彦名命(すくなひこなのみこと)
菅原道真(すがわらのみちざね)
大巳貴命(おおなむちのみこと)
御神徳
縁結び、学問、医療、健康、芸能など
みどころ
多摩丘陵の中腹にある細長い境内です。長い階段を上がった先にある境内は、まさに神域というイメージです。
アクセス
東京都稲城市矢野口3292
探訪レポート
京王よみうりランド駅から歩いて行きます。途中は畑や住宅がある長閑な風景です。一之鳥居をくぐるとすぐに階段になっていて、午後の日差しが神々しい感じで降り注いでいます。
階段を登り切ると、左に境内地が見えます。天神という名称は、菅原道真を祀った神社に特有ですが、他に少彦名命(すくなひこなのみこと)を主祭神とする神社も天神社を名乗っています。少彦名命は大国主命と共に国造りをした神様なのですが、大国主命は国津神(くにつかみ)いわゆる地の神様で、少彦名命は天津神(あまつかみ)つまり天の神様なのです。天の神様なので天神様という訳です。多摩川の対岸にある調布市の布多天神社も、そもそもは少彦名命を祀る天神社だったそうです。布多天神社も穴澤天神社も、主祭神として少彦名命をお祀りし、後に菅原道真を合祀したという同じ歴史を持っています。
こちらは戦没者祈念の石碑です。戦争について学び考えることすら放棄した戦後教育のために、日本は戦争と無縁の国ように感じている人も多いと思いますが、元寇や日露戦争に勝ったから、太平洋戦争に敗けたから、今の日本や日本人のアイデンティティが形成されているのです。
境内社がふたつ。左が神明神社、右が山王神社です。穴澤天神社に来て目につくのは「延喜式内」という言葉です。枕詞のようにあちこちに書かれていますが、先日訪問した「武蔵国一ノ宮」小野神社のようなもので、「延喜式内」は穴澤天神社のアピールポイントなのです。延喜式内とは、延喜式神名帳に掲載されている神社です、ということです。
二之鳥居です。山の斜面にある神社なので、細長い境内になっています。延喜式神名帳は、延長5年(927年)に纏められた、官社に指定された神社の一覧です。簡単に言うと、延喜式神名帳に掲載される=国が認めた由緒正しき神社ということです。当時の日本の人口は500万人くらいで、延喜式神名帳に記載された神社は2861社です。
こちらは神楽殿です。使用前なのか使用後なのか、紅白幕が張られていました。穴澤天神社では獅子舞が有名なようで、市の文化財に指定されています。例大祭の日には矢野口から一之鳥居を通って、踊りながら階段を上がって境内までやってくるそうです。
手水舎がありました。延喜式神名帳は千年以上前のものですので、延喜式神名帳に記載されている神社が現在どこでどうなっているのかについて、はっきり特定できない場合もあります。千年もあれば、廃れてしまったり、火災や水害などの災害で消失してしまったりと、何度も消失と再建を経験している間に、わからなくなってしまうことがあるのです。
花が浮かべられていて、特別な感じがします。やはりイベントがあったようですね。延喜式神名帳に記載されている「武蔵国多摩郡穴澤神社」とは、いったい現代のどの神社のことであろうか。その候補にあがる神社のことを「論社」と呼びます。以前「多摩川左岸百所巡礼」企画で訪れた、奥多摩の羽黒三田神社や将門神社にあった穴澤天神も、「武蔵国多摩郡穴澤神社」の論社のひとつです。
本殿の左側には宝物殿と潔斎殿と神輿庫が並んでいます。
本殿の右側には稲荷社がありました。正一位稲荷大明神と書かれたのぼり旗が建っています。奈良時代・平安時代あたりから明治維新まで、神様にも神階という位を授けた時代がありました。時代によっては厳格だったりご都合主義だったりしたそうですが、稲荷神社では正一位の神階を与えられた伏見稲荷神社から勧請した神社は、全て正一位となるという独自のルールを、このようなのぼり旗でアピールしています。
本殿にお祀りされているのは、少彦名命です。大国主命と共に国造りを行った神様で、農業や医薬や造酒の神様として信仰を集めています。創建は孝安天皇4年(紀元前389年)と言いますから、先日当ブログの新記録となった小野神社に迫る古社です。創建当初からは少彦名命ではなく、土地神として「穴澤神」を祀っていたという説もあります。江戸時代に入り元禄7年(1694年)に菅原道真を祀る天満神社を相殿神として合祀しました。皆様ご存知の学問の神様です。さらに大正7年(1918年)に国安神社に祀られていた大巳貴命を相殿神として合祀しました。大巳貴命は、少彦名命と共に国造りをした大国主命の別名とされています。
こちらは昭和58年に神輿庫を建設する際、地盤に埋まっていた老木の根なのだそうです。この木は穴澤天神社に古くから伝えられていた千年を超える御神木であったことが判明し、神輿会の方々の意志で、このようにご安置されているのだそうです。
こちらは弁天坂です。この坂を降りると弁天様がいらっしゃるのでしょう。一度下りたら登りたくない感じの坂です。そのまま帰れますようにと念じながら坂を下ります。
坂を降りたところに、「東京の名湧水57選」に選定されている湧水があります。色々と注意書きが書かれています。私が滞在していた時間にも、自転車にペットボトルをたくさん積んだ御婦人が、湧水を汲みに来ていました。飲める湧水として都が指定することは責任問題になりますので、頻繁に都の調査が行われていると、稲城市民の知人が教えてくれました。
隣には弁天様がいらっしゃって、奥の方へ洞窟のようなものが掘られています。
暗い洞窟を歩いて入ってみると、すぐに突き当たって、祠が置いてありました。この穴にはそもそも石仏が安置されていたのですが、旧別当寺である威光寺に移動されています。こちらはその後に復元された洞窟とのこと。どうして移動されたのかはよくわからないそうです。威光寺には古墳を拡張した弁天洞窟が掘られて、様々な石仏を洞窟内に安置していたのですが、崩落の危険から閉鎖されているとのこと。蝋燭の灯りを頼りに入って行くという、探訪ポイント高めの洞窟なので、是非補強工事をしていただいて見学可能にしていただきたいです。
さて、弁天様の下に鳥居があって、ここから通りに出られました。鳥居( ↑ )の足から飛び出している竹箒は、ここに水を汲みに来た方が水を汲む前に、持参した竹箒で周囲を掃除している様子です。素晴らしい行動で感動しました。きっとこの湧水が弥生時代の人々によって聖地として認知され、洞窟で原始的な儀礼が行われて、穴澤神という土地神を祀らせたような気がします。そんな弥生時代の人々の心が令和まで受け継がれて、2400年後の今も聖なる地を掃き清めている人がいるというのは壮大なロマンです。それとも、弥生時代の人々が発した信号のようなエネルギーが、2400年の歴史を超えて直接令和の人々に伝達しているのかも知れません。
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