僧の修行についての続編です。人々から尊敬され、多額の浄財を施され、税の優遇を受け、死者をあの世に送る力を持つ僧侶の修行とは、いかなるものでしょうか。
修行といえば苦行
僧の修行としてイメージしやすいものとして、滝に打たれたり、山中や海岸をひたすら歩き回ったり、火を焚いたり水を浴びたり、飲食や睡眠を断ったりと、苦しい辛い状況にわざわざ身を置いて、それに耐え抜く心を鍛えるようなものがあります。極限状態下でこそ真実が露呈するというような考えなのだと思います。釈迦も悟りを求める過程で、多くの苦行を行ったと言われています。新人研修的な修行をクリアしても、さらなる過酷な修行が用意されている宗派もあります。日蓮宗の荒行堂や、天台宗の千日回峰行などは、その最たるものとして有名ですね。1日でも難しい修行を何年も続けて、体と心を酷使して常人では考えられない修行を果たします。その修行を乗り越えた僧には、特別な呼び名と地位と名誉が与えられ、人々はその偉業に惹かれて信仰を捧げます。
ここで、ひねくれ者の私の穿った考えを言いますと、本来は修行する僧自身が、その過酷な修行によっていかに変わるか、ワンランク上の存在になれるか、つまり悟りに近づけるかが修行の目的だと思います。しかし、それだけではないというのが私の感想です。宗派が設けている超絶過酷な修行によって、「超絶過酷な修行をクリアするカリスマ僧侶」が生み出されます。そのカリスマ僧侶をスーパーマンのようにプレゼンすることが、信者のハートをガッチリ掴む手段になっているのだと思います。逆に言えば、宗門繁栄のためには、信者の心を引きつけるカリスマ僧侶が必要で、そのために誰もが知るような過酷な修行を利用しているとも言えます。
修行の目的
上記の穿った考えは、私の日本仏教に対する捉え方によるものです。インドの釈迦の仏教の目的は「輪廻転生の苦しみから解脱すること」です。つまり「悟りを開くこと」「仏になること」です。僧自身が修行によってその境地に至ることを目的とします。釈迦は長い旅の中で、多くの宗派の指導者に出会ったり、苦行をしたりした後に、菩提樹の樹の下で瞑想に入り、悟りを開き、輪廻転生の苦しみから解脱し、仏と成って仏陀と名乗りました。
これに対して日本の仏教の目的は、宗門や自坊を維持繁栄させて、次の世代に引き継ぐこととなってしまっています。そもそも悟りを開くことを目指していないので、戒律を守ることもいい加減ですし、僧であっても生きている間は人生を謳歌して、皆一様に死んでから仏に成ります。どんなに過酷な修行をしても、現世で解脱したという僧はいません。
修行の結果
葬儀の仕事をしていると、寺院の檀家さんたちが、「うちの副住職は今、本山で修行しているから」なんて自慢げに話をするのを聞きます。その副住職が本山から自坊へ戻ってきてからも、檀家さんにとって「副住職が本山で修行した」ことは、お寺に対する信仰心を深める要素になります。「修行をしてどれだけ立派な僧になったか」ではなく、「格式高い本山で修行をしたこと」が大切なようです。
過酷な修行は、命を落とす危険もあるとか、大怪我する危険があるとか、修行の過酷さが表現されています。日本の仏教ではそんな過酷な修行をしても、悟りも開けず仏にも成れませんが、カリスマ僧侶になって人々から崇拝されて、自坊や宗門が繁栄します。
もちろん、自ら悟りに近づくために、修行をする僧も多くいらっしゃると思います。超絶過酷な修行を達成して、我々衆生には感得できない境地を得て、その経験をもとに衆生を救う活動を続けている僧侶もいらっしゃると思います。ただその裏側もあって、「観音様の代わりにエッチしろ」「逆らうと地獄に落ちるぞ」と女性を強姦する僧がいたり、僧に強姦された女性から救助を求められても、相手にせず口封じに金を渡すカリスマ僧侶もいたりします。この事件はまだ調査中ですが、どんな過酷な修行をしても、修行をしたから偉いのではなく、修行の結果が評価されるべきです。その結果が僧自身の人間力よりも、
宗門繁栄の影響力に向けられていると、人間性を伴わない「カリスマ僧侶」が誕生してしまうのだと思います。
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