寺社探訪

寺社探訪とコラム

「おくりびと」

葬儀業界では何年かに一度、メディアの流行が仕事の領域にダァーッとなだれ込む現象が起こります。昔ですと、1999年にCM曲となった坂本龍一作曲の「エナジーフロー」という曲が、葬儀式場でよく流れていました。同じ年に北野武監督の映画「菊次郎の夏」が流行って、主題歌のピアノ曲が葬儀の式場でも流れました。この頃は癒やしのピアノ曲が多かったです。

その後は2006年に秋川雅史の「千の風になって」がヒットして、すぐに葬儀式場で流されるようになりました。葬儀式場で著作権のあるCDを流すことは問題アリなのでしょうが、流行というのはそういう規則を押し流してしまう力があります。葬儀社の指定で「千の風になって」をかけようと準備していたら、遺族から「このCDを流してください」と「千の風になって」のCDを手渡されるということもありました。この曲は「私はお墓に眠っていません」という仏教寺院的に問題のある歌詞だったので、わざわざ法話で反論しているお坊さんもいました。そのくらい葬儀業界に影響を与えた流行でした。

 

さて、そんな中でも、近年最も葬儀業界に影響を与えた流行が、2008年に制作され米アカデミー賞外国語映画賞を受賞した滝田洋二郎監督の映画「おくりびと」です。これはダイレクトに私達の業界のお話です。納棺師を通じて、葬儀の仕事を見事に映像化していると思います。近年と言っても、もう10年以上も昔の話なのですね。

この映画は葬儀業界にもの凄い影響をもたらしました。以前は納棺の儀は、葬儀社の社員が行うことが多かったです。葬儀社の社員も、ちゃんと心を込めて、丁寧な納棺をする方も多かったですが、納棺の専門家ではありません。作品中のような専門的な技術で復顔やらメイクを行うのは、専門家である納棺師には及びません。また、納棺師が所属する湯灌・納棺会社はどちらかというと、事件や事故や孤独死などで、修復が必要なご遺体の場合に活躍していました。それが、専門技術を駆使した湯灌・納棺がこの作品によって一気に認知され、市民権を得て、修復ではなく、より生前の姿に近づけるため、より美しい姿でお別れをするために活用されるようになりました。湯灌・納棺の専門会社は、一気に事業規模を拡大させたのではないかと思います。

映画「おくりびと」で、本木雅弘演じる主人公が初仕事として向かったのが、遺体の収容です。現在では、葬儀社と警察の仕事領域の曖昧さの中に発生する利権が問題視されていて、死亡現場に葬儀社がご遺体を収容に行くことは無いのかも知れませんが、以前は葬儀社の仕事でした。私自身も映画で表現されたような腐乱したご遺体の収容に行った経験がありますが、あれは映像にできない部分をよく表現しています。孤独死の現場に収容へ行くと、ウジ、ハエ、ゴキ、アリなどの虫だけでなく、籠もって生暖かい空気とか、数日は鼻について取れない臭いとか、強烈な経験をすることがあります。そんな中で、主人公が嘔吐しながら頑張る姿とか、銭湯で体を洗いまくる姿、動物の肉が食べられなくなる様子、落ち込んでしまい、自分への罰だとか試練だとか考え込んでしまう姿は、葬儀業界で働く人の「あるある」な姿で、本当によく表現されています。葬儀業界には遺体が好きで、腐乱死体に興奮する変人もいますが、考え込み、打ちひしがれ、川を遡上する鮭を眺める主人公に、山崎努演じる社長が「君の天職だ。この仕事は」と言う台詞が奥深くて良いです。

この作品が描いている葬儀業界の特徴的な姿に「偏見」があります。遅刻した主人公たちに、遺族が「お前ら、死んだ人間で食ってんだろ?」と怒るシーンがあります。私も同じ台詞を言われたことがありますが、怒られたのではなく、思い出したくもない下世話なことを言われました。作品では、社長が故人の生前の姿を蘇らせる技術と、故人の尊厳を守る姿勢で、遺族を納得させてしまい、最後には感謝されます。

その後、友人や嫁からも「偏見」攻撃を受けます。今の時代、ここまで葬儀業界への偏見というのは見受けられませんが、元々穢れ(けがれ)が多いので穢多(えた)身分の人が担っていた仕事で、人が嫌がる裏稼業だった時代もあり、荒っぽい人たちが多かった時代もありました。今でも葬儀代金とは別に、葬儀社や火葬場職員に「心付け」を出す習慣が残っている地域があります。私も心付けをいただいたことがありますが、裏を返せば、私が人の嫌がる(穢れの多い)仕事をしていると、遺族は思っているのかなと感じたりします。作品内では友人から「もっとマシな仕事につけ」と言われ、嫁からは「こんな仕事して恥ずかしいと思わないの?」「普通の仕事をしてほしい」「理屈はいいから今すぐ辞めて」「一生の仕事にできるの?」と言われ、最終的には「触らないで、穢らわしい」と言われて家を出ていかれてしまいます。さすがに、ここまでの偏見は、現在ではもう見られないのではないでしょうか。先述した荒っぽい人たちも自然淘汰されているし、「心付け」の習慣も失われつつあります。

そして、バイク事故を起こした若者に遺族が「一生、あの人みたいな仕事をして償うか?」と言われて、ついに主人公の心折れて辞める決心をします。この作品には、社長と主人公がすごく贅沢で美味しい食事をするシーンが何度か出てきます。これは、人に嫌われる仕事だが、それだけに儲かるこの仕事を喩えているのかなと思います。嘔吐して食えなくなる程の仕事だったけど、今は精神が鍛えられて旨いものが食える。「旨いんだよなぁ、困ったことに」という台詞が印象的です。食べることは生命力も表現していて、人間の持つ生命力、精神力を感じ、故人に寄り添い、遺族を慰める技術を発揮でき、旨いものが食えるこの仕事の魅力に、主人公はすっかりハマってしまって、既に離れられなくなっているのです。

結局は友人も嫁も、主人公の納棺技術で納得させてしまうのですが、嫁は性格崩壊レベルに態度が変わっていきます。主人公の亡くなった父親を迎えに行くのに、嫁は寝台車の助手席に乗って同行します。寝台車の助手席に乗るのって、葬儀業界の人でなければ、結構勇気のいる経験だと思います。最終的には「触らないで、穢らわしい」と言っていた人が、故人に尊厳を示さない葬儀社に対して、納棺師の誇りを夫に代わって示します。

本当によくできた作品ですが、私がこの映画に出てくる台詞で、これこそ葬儀の真髄だと思う言葉があります。多くの葬儀業界の人たちが、この映画の製作に携わったと思いますが、それでも映画作品の中に、葬儀の真髄が語られていることにショックを受けました。

「冷静であり、正確であり、そして、何より優しい愛情に満ちている。別れの場に立ち会い、故人を送る。静謐で、全ての行いがとても美しいものに思えた」

という台詞です。これこそ、主人公が、たとえ嫁が出ていっても納棺師を辞めなかった理由だと思うし、私が葬儀の仕事の真髄だと思うことです。この台詞に出てくる、冷静、正確、優しさ、愛情、別れ、静謐、美が同じ空間に同時に表出するのが葬儀の真髄だと思っています。

 

映画が流行っていた頃、サントラ盤が式場のBGMで流されたり、おくり〇〇という商品がたくさん売り出されたり、作品中に吉行和子さんが納棺されたものと同じ刺繍棺が発売されたり、葬祭イベントで納棺師による納棺の実演が流行しました。まさに「おくりびと現象」が葬儀業界を席巻した訳ですが、もうあれから10年以上経っているんですね。「おくりびと」以来は、そこまで流行がなだれ込むことはありません。数年前に「おくりびと」の二番煎じのような映画が作られましたが、全く話題になりませんでした。葬儀は遺族にとっては数年に一度、私達にとっては毎日という差があるので、いったん爆発的な流行が起こると、私達が飽きても容赦なく延々と毎日毎日繰り返さなければなりません。次は何が流行るのでしょうか?

 

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