JR奥多摩駅から「奥多摩むかし道」の方へ歩いていきます。JR青梅線は奥多摩駅が終点で、ここから先は電車がありません。バスが走ってますので、交通手段をすべて失う訳ではないですが、ちょっと不安になります。
多摩川左岸巡礼124番:羽黒三田神社
入口に立つと、この急な階段を前に考えることになります。行くか止めるか。私と同時に到着したご夫婦は、下から上を眺めて去っていきました。とりあえず、見えている鳥居まで上がってみますか。
鳥居を過ぎると、随神門が見えます。急な階段が続きます。この羽黒三田神社の創建はかなり古くて、貞観2年(860年)と記録にあります。出雲国の土師連行行基(東大寺造立の行基とは別人です)という方が東国に下向し、御岳山に詣って神のお告げを聞いて、この地に高皇産霊神と少彦名神の二神を祀り、穴沢天神と称しました。ん? 穴沢天神? 前回棚沢地区の将門神社を訪問した際に、多摩八座の穴沢天神が将門神社境内にあると紹介しましたが、多摩八座の穴沢天神の候補地は、将門神社境内だけでなく、稲城市の矢野口にもあり、さらにここ羽黒三田神社も論社のひとつとされています。
随神門の中には、お神輿のようなものが置かれています。右側の戸棚のようなものが左右両側にあり、中に随神様がいらっしゃいます。この神社は創建の後、左殿に天穂日命を祀って川辺神社と称します。その後、天慶年間(938-947年)に、平将門の子、良門が戦勝祈願をして八角鏡を納め、それが穴沢天神の御神体となります。そして永享6年(1434年)に、村内の元巣の森に鎮座していた羽黒大神を右殿に合祀して羽黒大権現と称します。永正元年(1504年)に将門16世の孫、三田弾正正忠次秀が社殿を再興して扁額に領内総鎮守であることを記して奉納します。
更に階段は続きます。明治に入って羽黒山大権現・穴沢大神の両社を併合して羽黒三田大神と改名し、村社に定められました。その後、羽黒三田神社と改名します。つまりこの神社は、穴沢天神と、平将門伝説、出羽三山の羽黒派古修験道が絡みあっている神社なのです。
これ、土台と屋根しか無いですね。間のお堂部分は風化してしまったのでしょうか。階段を登り終え、山道のような参道を進みます。神社はどこにあるのか、山の中を進んでいきます。
途中に祠が並んだ場所を通り過ぎます。おそらく羽黒三田神社とは関係なく、地域の方が何らかの意味と意図があってここに祠を並べたのだと思います。
大山祇神社・多賀神社と書かれています。大山祇神社は山の神様です。多賀神社は伊弉諾尊と伊弉冉尊を祀る神社です。
そのとなりに弁財天という琵琶を弾く像が祀られていますが、右足どうなってんの? とツッコみたくなります。左の祠には同行如来? の立像が安置されていました。奥に奉賛者の名前が掲示されていました。多くの寺社仏閣で常識となっていますが、私はこの奉賛者と金額を掲示するシステムが嫌いです。誰がいくら出したとか掲示してしまっては、見栄が満たされて、根本の祈りが成就しない気がします。
こちらもお堂の部分が押し潰れています。
この先に羽黒三田神社があるそうなので、参道という名の山道を進みます。
やっと鳥居が見えました。最初の階段下の鳥居を通過してから結構長かったです。奥多摩町に入ってから、愛宕神社や将門神社など、長い階段や山道を歩いた先に潜む神社が多いですね。
こちらが本殿です。本殿には高皇産霊神、少彦名神、稲倉魂命、天穂日命が祀られています。稲倉魂命とは「うかのみたまのみこと」と読みます。つまり宇迦之御魂命のことで、食物を司る稲荷神です。
境内社には、鹿島神社、両輪神社、八幡神社、立野神社、大祇神社、琴平神社、菅原神社、出雲神社、榛名神社があります。
多摩川左岸巡礼126番:健康観音 他
奥多摩むかし道に戻って、多摩川沿いと思われる林道を進みます。すると、仏像が点々と安置されている一帯に差し掛かります。こちらは、健康観音(別名ピンピンコロリ観音)と書かれていました。これらの仏像群を設置している方は、おそらく地元の方というか、この山の所有者の方だと思います。自分の土地にある様々な神社や祠を維持修理したり、堂宇を寄進したりするだけでなく、新しく信仰の対象となる仏像を建立されているようです。今はまだできたばかりで人々の信仰も少ないかも知れませんが、数十年、数百年経って、人の祈りが重なって尊き仏と崇められるようになるでしょう。
こちらはたくさんの祈りを受けてきた地蔵菩薩像が並んでいます。最初から1ヶ所に集められていたのではないと思いますが、様々な事情でこの安住の地にたどり着いたお地蔵様です。写っているのは半分で、奥の植物の先にまだズラリと並んでいます。
多摩川左岸巡礼128番:祠
地蔵群の少し先に小さな祠と祠の横に石碑が建っていました。この正面に大きな木があって、槐(さいかち)と言うそうで、この土地の名前の由来となっているそうです。祠の中には馬頭観音像ともう1つは地蔵菩薩と思われる像が安置されています。
関西圏に生まれ育った私と同年代より上の方々は、このような杉の林を見ると、尺八の音と共に、とある企業名の連呼が脳裏に蘇るのではないでしょうか?
ずっと多摩川沿いを歩いていますので、杉林の隙間からチラチラと川面が見えたり、水の流れる音が聞こえたりしていましたが、久々に桧村橋で多摩川を眺めることができました。と言っても、高すぎて非常に怖いです。
海から85.2kmです。フルマラソン2回分ですね。思えば遠くに来たものですが、ここはまだ世界一のmega-city東京都です。
桧村橋を渡らずに、奥多摩むかし道を進みます。舗装されたアスファルトの道を多摩川に沿って進みます。青梅街道はトンネルでショーットカットしています。しばらくすると右手に山の中へ入っていく側道が現れますので、そちらへ進みます。山の中ですが整備されたきれいな道です。しばらくすると階段の上に白髭神社の鳥居が見えます。
階段の中ほどには手水舎があります。水もありませんし、苔生しすぎて清められないでしょうけど、一応手水舎です。この白髭神社は、埼玉県日高の高麗神社の御祭神を分祀したものだそうです。高麗というのは朝鮮の高句麗のことで、668年に高句麗は唐と新羅の連合軍に敗れて滅亡します。国を追われた高句麗人が日本にやってきて、当時の朝廷から埼玉の高麗郡に集められ、開拓して生活を築いていったという歴史があります。その高句麗人たちのリーダーだった若光を主神として祀ったのが高麗神社で、猿田彦命と武内宿禰命も祀っています。高麗神社の分社で、白髭神社を名乗る神社もあるそうですので、そのひとつかと思われます。
境内に上がるとびっくりするほどの大岩が神社に迫っています。この大岩こそがこの神社の御神体で、東京都の天然記念物に指定されています。滋賀県に白髭神社の総本社があるのですが、垂仁天皇の代(4世紀頃)に倭姫命によって社殿が築かれたとされる神社で、御祭神は猿田彦命(稀に塩土老翁神)です。この滋賀の白髭神社系と埼玉の高麗神社系は、同じ白髭神社と名乗ることがあるのですが、縁起が違っています。これを諸説ありという括りで一緒にするのは少々強引過ぎる気がします。それでも、この奥多摩の白髭神社は、どうやら両方と無関係では無さそうです。私のような不勉強者では、全く正解がわかりません。しかし、この神社に限っては、系統を探るよりまずこの巨石あってのことだと思います。この斜めに迫ってそびえる大岩に対する信仰が、そもそもの始まりということでしょう。
小さな境内社がありました。失礼ながら、おもちゃのようです。さて、この白髭神社の御祭神は塩土翁神(しおつちおおのかみ)なので、そこは滋賀の白髭神社寄りですね。でもこの御祭神は高麗神社の分祀です。訳わかりませんね。そもそもは白髭大明神という神仏習合の神だったそうですが、明治維新で白髭神社になりました。高句麗に限らず、新羅や百済も結局は滅亡して、その度に貿易国だった日本へたくさんの渡来人がやってきたそうです。武蔵国になぜ渡来人が多いのかは諸説あって、追求していくと面白そうです。
これ( ↑ )は、何かのおまじないでしょうか? 傾いた巨岩を支えるべく、つっかえ棒が数ヶ所に置かれていました。「白髭神社の巨岩につっかえ棒を置くと幸せになれる」「白髭神社の巨岩に置かれたつっかえ棒を取ると、神社ごと巨岩に潰される」などという都市伝説が流行しているのかもしれません。信じるか信じないかはあなた次第です。
更に進んでいくと、穴の空いた岩がありました。さて大喜利です。これ、何の穴でしょう? 人は想像力が豊かです。こちらは「弁慶の腕抜き岩」と言うそうです。この岩を武蔵坊弁慶がどうこうしたという言い伝えや伝説は全く無いのですが、ただ穴が空く程の力持ちというこじつけで、その様に呼ばれるようになったそうです。
多摩川左岸巡礼130番:耳神様
更に進んでいくと、耳神様と呼ばれる場所があります。ここに穴の空いた石をお供えすると、耳の病気が治るという民間信仰だそうです。昔は、痛いからとすぐに病院へ行けた訳でもなく、医者にかかってもすぐに治った訳でもないと思います。神に祈って治してほしいと縋る気持はわかりますね。
木々の隙間から多摩川が見えました。人も近づけないような谷になっていますね。もしかしたら、川釣り勢の方々は入っていけるのかも知れませんが。
古い石と新しい石が見受けられます。神仏を信じる気持ちが受け継がれている証拠ですね。鳥居がありますが不動尊ということで仏教ですね。でも、ここは私が働いている葬儀業界ではなく、奥多摩むかし道なので、神も仏も同じく尊いもので、区別はいらないのです。
また狛犬のように祠が左右にありました。この不動尊は、明治時代に成田山新勝寺から勧請した不動尊を安置しているそうです。
どうしても、このような中が見えづらい祠になってしまうのは仕方ありません。私はこの中を覗く気持になれないんですよね。例えばここなら、どんな不動明王様が安置されているのか興味はあるのですが、神仏の存在がそこにあるとわかっていて覗き込むという行為が、背徳と言うか、神仏を敬うことと逆に思えるんですよね。本当は覗かなくても見えるようにしてくれるのが有り難いです。
入口の横に観音様のような像が建っていました。
多摩川左岸巡礼132番:がんどうの馬頭様
看板が落ちていて傾いていたので、せめて真っ直ぐにしておきました。がんどうの馬頭様と書かれています。がんどうとは厳道のことで、以前は人ひとりが通れるほどの細い道だったそうで、馬がよく谷に落ちて命を落としていたのだそうです。その度に馬頭観音を建立して供養したそうですす。
看板にはそう書かれていても、朽ち果てすぎて何がなんだかどこがどれだかわかりません。崖の間にあった石に文字が刻まれています。何と書いてあるのかは読めませんが、供養のために掘られた石なのかも知れません。
しだくら橋です。この橋は多摩川に掛かる橋で一番怖いです。何がそこまで怖いかと言うと、案内看板に、安全のためこの橋を渡るのは2人までにしてくださいと書かれています。これ、以前は3人で、もっと昔はそれ以上でした。そのうち1人になり、0人になると予想ができます。私がこの橋を渡る時、そのきっかけとなる出来事が・・・と思うと、非常に怖いです。
川から眺める多摩川は見事な渓谷美です。測ったように正確に橋の中央を歩きながら、日常生活の都合上この橋を必要としている人っているのだろうか? という疑問が浮かんだ。
しだくら橋を過ぎてすぐ、縁結びの地蔵尊があります。見方によれば、石が2つあるだけですが、切ない思いを祈りに変えて、この石にすがった人がたくさんいるのです、きっと。壁の上にあるのですが、人に知られずに二股大根を供えると、成就するそうです。大根を供えている姿を想像するとおかしいですが、とりあえず、二股大根は供えられていませんでした。
こちらは馬の水飲み場だそうです。馬が休憩する場所ですから、人もそこで休憩します。ここには「ゴーロ」「清水」「大島屋」の3件の茶店があったそうです。名前からして、個性の全く違うお店だったのでしょうね。「ゴーロ」が気になります。うどんやお菓子、まんじゅう、酒タバコなどなどが売られていたそうです。
多摩川左岸巡礼134番:牛頭観音
落石防止の金網の隙間に牛頭観音があります。牛頭というと牛頭天王で祇園信仰などと、私はすぐに方程式にしてしまうのですが、こちらは祇園信仰というよりも、馬頭観音の牛バージョンです。牛も旅のお供だったのです。
先程は耳神様でしたが、今度はむし歯地蔵です。歯の痛みって我慢するのが難しいというか、精神的に削られていきますよね。仏様に縋りたくもなります。煎った大豆をお供えして、後は一心に祈れば痛みがなくなるそうです。
道所橋です。ここも制限人数2人までだそうですが、以前はもっと多かったようです。こちらはしだくら橋に比べると怖さは半減します。
橋から見る景色もそこまで怖くはありません。川面に紅葉が映ってきれいです。この道所橋が、今回の多摩川左岸巡礼の最後の橋になります。最初は大田区で建設中の羽田スカイブリッジでした。最後の橋は人が2人しか通れない吊橋です。
ここは西久保の切り返しというところです。右側の坂を上ってきたのですが、ここは紅葉が植えられていて、赤く色づいてきれいでした。休憩所になっていたのでここでお弁当を食べている人もいました。
その切り返しを過ぎて、すぐにまた山道に切り返します。直線距離だと、ここから奥多摩湖まではすぐなのです。おそらくこの山道に入らないで、トンネルがかなり危険だけど青梅街道を歩けば、サクッと奥多摩湖に到着します。しかし、歩道なしのトンネルは流石に怖いし、迷惑になってしまいます。よって、山道に入っていきます。ここはスニーカーでも行けますが、軽登山用の靴があればその方が良いです。私は雨の日に配達の仕事をする時に使っている、底の厚いトレッキングシューズで行きました。
山道に入ってまもなく、小河内ダム(奥多摩湖)が見えてきます。近くに見えるので、20分くらいかなと錯覚してしまいますが、もっとかかります。ゆっくり歩いても1時間はかからない程度ですけど。
このように完全な山道で青梅街道の上をグニャグニャと歩いていきます。
途中で集落があるのですが、道と家の境界線が狭くて、他人の家の敷地を通っている錯覚に襲われます。
山奥って感じだなぁ・・・と思いながら写真を撮りました。目の前の現実なのに、現実感なく目に写ります。風を感じて音を聞いて匂いを嗅いで、五感をフルに使って自分がそこにいることを感じます。
この石碑が目印です。これ、よく気にしておかないと素通りしそうになります。湯呑がお供えされていますが、メガネとかはきっと誰かの落とし物ですね。この石碑を見つけたら、右に曲がって、というか山の上に登っていきます。
鳥居が現れます。ここは浅間神社です。浅間神社は富士山信仰なので、山の中や山に近い場所、富士山が見える場所によくあります。祀られているのは木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)です。大山祗命の娘で、天孫降臨の邇邇芸命の妻です。天孫の子を生んだので子宝や安産祈願が有名です。
お参りポイントにもずいぶん立ち寄って手を合わせてきましたが、ここが最後になるのかな、などと思いながら入念にお参りしました。ところで、ここまで136ヶ所のお参りポイントに立ち寄ったのですが、私はどんなお祈りをしているのか、全てのポイントでお賽銭を出しているのか、という疑問が浮上しますよね。おそらくこの浅間神社では、二礼二拍手一礼でお参りしますが、特にお願い事のようなことはしていません。私の名前を告げて、今日ここに参りました。どうぞよろしく。という感じです。お願いと言えばそれもお願いですかね。
柵のある道を進みます。枯れ葉が積もってフカフカです。お賽銭については、ほとんど出してないです。他とは違う何かを感じた場所では、お賽銭を出していますが、気分任せで、財布にたまたま入っていた硬貨を数枚という程度です。神道研究家Youtuberの羽賀ヒカルさんは、お願い事をするのに硬貨なんて失礼にあたると、お札しか出したことがないそうです。言い得て妙です。5円や10円で夢のような願い事を叶えてくれるなんて、虫の良い話は無いでしょう。なので、私はお願いはしません。いつかお願いするかも知れないので、どうぞよろしく、と自己紹介している感覚です。
また、視界が開けて奥多摩湖が見えてきました。もうすぐかと思いきや、まだまだ結構あります。私が寺社を訪問する時、求めているものがご利益やご神徳ではないことが多いです。私はそこに存在した過去の祈りに触れたいから、寺社を訪問しています。千年前の人が祈った場所に立ちたい。千年間人が手を合わせ続けた神仏を感じてみたい、という感じです。
通行に注意したからって、足元が崩壊したり、上から土砂が流れてきたりしたら、そのまま流され落ちてしまうでしょう。
本当にここを通っても大丈夫と判定されたのか心配になるほど、山側から流れ落ちてきたものが大量に引っかかって、鉄パイプが曲がっています。自己責任だから、嫌なら引き返せば良い。そんな声が聞こえてくる気がしました。
流れ落ちてきたものが、橋でようやく止まっている感じです。2人までと制限されていたしだくら橋と、どちらが限界に近いかと言えば、この橋でしょう。
さて、山側崩落危険エリアも過ぎて、青目不動尊の跡地に到着しました。昔々修験道の家に不動尊と薬師如来と弘法大師の尊像を安置した堂がありました。そこが蕎麦屋さんかお茶屋さんのようなお店になり、そのお店が潰れて、次にカフェができて、今はそのカフェも潰れたという歴史の流れのようです。入口はバリ封されていて、無秩序に草木が生い茂っていました。
この建物、お堂のようですね。ここが青目立不動尊の不動堂だったか、それとも別のお堂だったか、今となっては廃墟です。新たに誰かがここで商売を始めるには、少し時間が空きすぎているような気がします。植物が建物を侵食する前に何かできたらとは思いますが、立地上なかなか難しいですね。
ここで山道は終わります。「奥多摩むかし道」もここで終わりかなと思います。すごく大回りをしたので、奥多摩湖の北側に辿り着きました。ここから更なる大回りをして奥多摩湖に向かいます。
坂道を下ります。隣には多摩川に最初に流れ込む支流となる川が流れています。もうゴールはすぐそこです。青梅街道が見えてきました。
奥多摩湖に到着しました。皆様、お付き合いありがとうごさいました。私、おめでとうございました。ということで、清々しい気分でおにぎりを頬張りました。
多摩川左岸巡礼137番:石塔群
奥多摩湖の水と緑のふれあい館のそばに、石塔群がありました。ダムに沈んだ場所にあったものなのか、どこか別の場所から集められたのか、行き場のなくなった石塔たちの新しい居場所として、旅人たちが集まるこの地に建っています。
ひとつご紹介すると、こちらはかなりコンパクトな六地蔵です。
小河内ダムの上から下の方を覗き込んでみました。こちらが東京都交通局が管理運営する発電所です。白い建物の横にプール的な施設があり、その先に多摩川が始まっていますね。この地点こそが、多摩川Genesis。Beginning of 多摩川。想像以上にわかりやすくはっきりと多摩川が始まっていました。
こちらは慰霊碑です。これだけの建造物をこんな奥地に創る作業が安全な訳なく、犠牲となられた方々も多いです。昭和13年に着工し、戦争で一時中断、昭和32年に完成しました。約20年間の工事期間に87名の殉職者がいたそうです。
ここから見える奥多摩湖はほんの一部で、奥多摩湖はかなり奥の方まで広がっています。そして、その先は、小菅川、丹波川、後山川、小袖川、蜂谷川が奥多摩湖に流れ込んでいます。結果的には137ヶ所にお参りをしつつ、羽田から奥多摩まで遡上しました。我ながらよく歩きました。こんなことをして何か得することがあったかというと、何もありません。得たものは知識と経験だけ。でも、それこそが人が生きるということですね。
人生あと何年かわかりませんが、私が2021年の秋に多摩川を歩いたことは、どこの記録にも誰の記憶にも残らなくても事実なのです。私が神仏に手を合わせた場所は、私が死んで跡形もなくなっても、また誰かがそこに立って手を合わせるでしょう。2121年になっても、3021年になっても。
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