霊厳寺
地下鉄清澄白河駅から徒歩3分ほどの浄土宗霊厳寺に参りました。霊厳寺を開いた僧・霊厳は総本山知恩院の32世門跡であり、浄土宗の歴史においてよく名前が出てきます。名前はよく聞くが訪問するのは初という寺院です。
隣に霊厳寺幼稚園があってその近くに法然上人の幼姿の像が建立されていました。幼名である勢至丸様と書かれています。浄土宗寺院では稀に見かけます。そもそも霊巌寺は、隅田川を超えた日本橋側の中洲(霊巌寺が建立されたので、霊岸島と称していました)にあったのですが、明暦の大火で現在地に移っています。
徳川11代家斉の老中首座として寛政の改革を行った松平定信の墓です。こちらは重厚な扉と塀に囲まれた立派な墓所です。他にも今治藩や膳所藩の大名の墓があるそうです。松平定信は陸奥白河藩の藩主ですので、このあたりの地名が白河というのは、定信から来ているそうです。
霊巌寺の地蔵菩薩坐像
霊巌寺の地蔵菩薩は、亨保2年(1717年)江戸六地蔵の5番目に建立されました。拝順も5番目です。像高は273cnで、六地蔵の中では品川寺に次ぐ2番目の大きさです。台座に穴が開いているようですね。霊巌寺の地蔵菩薩が担当するのは水戸街道です。他の江戸六地蔵の地蔵菩薩坐像に比べると土台が低くて、かなり身近に感じることができます。
水戸街道 日本橋界隈
さて今回は、霊巌寺から日本橋方面に向かい、そこから水戸街道を歩いていきます。5回目になりますが、どうぞよろしくお願いします。
霊厳寺の周囲を歩いていると、「干鰮場跡(ほしかばあと)」という石碑を見つけました。清澄白河駅のすぐ近く、霊巌寺の真裏あたりです。銚子で水揚げされたイワシを干したものが肥料などに利用されたそうで、その荷揚場を干鰮場(ほしかば)と言ったそうです。小名木川から荷揚げしていたそうです。
利根川水系を利用して江戸市中に農産物や海産物を船で運んでいた時代、小名木川は重要な水路だったようです。最も隅田川よりの橋が萬年橋ですが、萬年橋は延宝8年(1680年)には既に存在した記録があります。萬年橋の北岸には川舟番所跡があります。こちらは小名木川を通る人や物を検査する幕府の機関で、正保4年(1647年)頃に設置されたと考えられています。明暦の大火(1657年)の後は江戸の町ごと再整備されましたので、番所もこの地より別の場所に移転しました。
霊巌寺はそもそも隅田川の日本橋側の霊岸島にありました。霊岸島に架かる橋は永代橋ですが、こちらは一本北側の清洲橋です。余談ですが、この清洲橋は、ドイツのライン川に架かる吊り橋をイメージして造られたそうです。ここから眺める景色がライン川の橋を彷彿とさせるそうですが、いかがでしょうか? 雰囲気伝わりますか?
日本橋近くまでやってきました。ここは超有名なパワースポット、銭洗弁財天がいらっしゃる小網神社です。平日の午前中にこの大混雑。誘導の警備員さんが数名出るほどの人気です。小さな神社なので、狭いラーメン屋が繁盛しているように見えるのと同じかもしれませんが、皆さん朝から行列を作って参拝を待っています。TVで紹介されて以来、常に人で溢れていると話には聞いていましたが、これほどとは驚きました。
ここは日本橋の北側に当たる、日本橋〇〇町と名のつく町が羅列しているエリアなのですが、ここに旧日光街道本通りと書かれたと石碑が建っています。日本橋から最初の宿場町である千住宿までは日光街道=奥州街道=水戸街道です。千住宿で水戸街道が分岐し、宇都宮宿で日光街道と奥州街道が分岐します。
こちらがかつての日光街道=奥州街道=水戸街道です。街道の雰囲気というか、名残はほぼありませんが、日本橋らしく重厚感のあるビルヂングが建ち並んでいます。
水戸街道 千住宿
千住宿は奥州街道の会でレポートしておりますので、そちらをご覧ください。江戸の街道文化と松尾芭蕉が入り混じって、ややこしくもあり、それがまた文化が生まれる源になっていて、大きな宿場町となっていました。
長い千住宿の商店街の北の方、荒川が近くなってきたところに絵馬屋の吉田家がありました。紙問屋の横山家が向かいにあり、繁華街というよりは文化的な町並みのこのあたりを過ぎたら、そこで水戸街道へ分岐します。
こちらが分岐点の石碑です。北へ旧日光街道、東へ旧水戸佐倉道と書かれています。ちなみに北へ行く日光街道と奥州街道は江戸五街道と呼ばれた主要道路ですが、水戸街道はいわゆる脇往還という道路です。
分岐した水戸街道方面はこのような景色です。先の方を横切っているのはJRの線路です。その向こう側につくばエキスプレスも走っています。江戸時代は真っ直ぐな道が続いていても、時代の流れで寸断されてしまっています。
電車の線路を超えて、ここは、荒川の土手から撮影しています。薄茶色の建物の横を通っている「ゾーン30」の道が旧水戸街道です。今度は荒川に寸断されます。この荒川は正式には荒川放水路と言って、大正2年(1913年)から昭和5年(1930年)にかけて造られました。つまり、江戸時代にはこの荒川放水路のあった場所は地続きだったのです。
ですから、こんな風景は江戸時代にはなく、彼岸と此岸が繋がっていました。それにしても絵に書いたような曇天ですね。霊巌寺と別日に訪問したことがバレてしまいます。
こちらは対岸の土手から撮影しています。正面の道が分断された旧水戸街道の続きです。なんとなく、先程の「ゾーン30」の道の続きと言われれば、そんな感じがします。
このあたりは賑やかな千住宿を出発して、次の休憩までの間、黙々と距離を稼ぐべく歩いていた通りなのかも知れません。
綾瀬川を渡る水戸橋跡地に、橋の石組が残されています。現在は水戸橋跡地の少し上流に水戸橋があり、少し下流に新水戸橋があります。説明板には水戸橋と綾瀬川の歴史や水戸光圀(水戸黄門)の妖怪退治の話、水戸街道(水戸佐倉道)の話が書かれています。
こちらが少し上流に架かる水戸橋です。ちなみに気になる水戸光圀の妖怪退治ですが、かなり強引で面白い話です。親をならず者に殺された狸が敵を討とうと妖怪となって現れました。そこへ水戸光圀率いる旅の御一行がやってきて、妖怪を退治します。退治される寸前に近くのお地蔵様が身代わりとなって子狸を救いました。そのことを知った光圀は後世までの平穏を祈り橋の親柱に「水戸橋」と自ら筆を執って記したというお話。オチが斜め上を行ってますが、この身代わりになったお地蔵様は、水戸橋下流の正覚寺にご安置されているそうです。
こちらは古隅田川緑道という水戸橋付近に短い区間現れる川です。葛飾区亀有付近で中川から分岐して、ここで綾瀬川に合流します。川の流れは自然の力や人の都合で変えられてきました。大昔にはこの古隅田川が荒川の本流だった時代もあるそうです。
交差点のビルの前に石のベンチと自販機があります。どこにでもありそうな風景ですが、説明板があり、ここが立場(たてば)跡地だと書かれていました。立場とは、宿場と宿場の間に設けられた休憩所のような場所で、ひと休みして馬を繋いだり駕籠を交代したりしたそうです。千住宿を出発して黙々と距離を稼ぎ、そろそろ休憩したいところです。街道の宿場は幕府が管理していましたが、立場は幕府が管理するものもあれば、自然発生的にできたものもあるそうです。中には宿場と変わらないほどに発展した立場もあったそうです。この石のベンチがその名残りだと思うと、とても有り難いものに感じられます。
葛飾区小菅から堀切に入ったあたりの旧水戸街道です。完全な住宅街ですね。この先はこの道から左の少し細い道に分岐して、JR常磐線の線路方面に進みます。
江北橋通りとの合流点に旧水戸佐倉道の石碑が建っていました。ここからは交通量の多い大通りになります。石碑の裏側に丁寧な説明が書かれていますので、そのまま写してみます。かつて武蔵と下総の国境であった古隅田川が流れていたこのあたりは、江戸時代には千住宿から分岐した水戸佐倉道が通っており、葛飾区新宿で水戸道と佐倉道に分かれていました。現在は西亀有という町名ですが、上千葉村・砂原村といいました。この周辺では東京低地で数少ない中世の屋敷跡が発掘されており、十四世紀頃から集落があったと推定されています。上千葉・砂原という地名は、現在でも学校や公園の名前として残っています。とのこと。
四ツ木道と水戸佐倉道の分岐点を示す石碑がありました。ずーっと住宅街でしたが、周囲がだいぶ賑やかになってきましたよ。
水戸街道 亀有上宿
旧水戸街道亀有上宿の石碑です。当時の上下(かみしも)は天皇のおわす京都が上になってますので、歩いてきた感じで行くと、ここが葛飾新宿へ至る亀有の宿場の入口ということですね。
水戸黄門の石像と一里塚です。亀有の一里塚は、千住宿から一里(約4km)、日本橋から三里に位置するそうです。現在ではこのように石碑が建っていますが、かつての一里塚は塚というだけあって、土を盛って塚を作って榎などの根を広く張る木を植えたそうです。そう言われてみると、こんもりした場所に木が植わっているのを見かけることがありますね。水戸黄門の石像についてはハイセンス過ぎて、私が批評できるものではございません。あまり見ていると夢に出そうですね。
こちらが旧水戸街道亀有宿の通りです。亀有駅前の繁華街からは少し離れています。亀有駅前は「こち亀」のモニュメントがたくさんあって、柴又の寅さんと共に東京葛飾のアイコンとなっています。この先、旧水戸街道は中川を渡り亀有新宿、そして松戸へと続きます。
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