寺社探訪

寺社探訪とコラム

「江戸六地蔵+奥州街道」

江戸六地蔵東禅寺奥州街道千住宿

東禅寺

江戸六地蔵の2番札所は、台東区東浅草2丁目にあります東禅寺です。寛永元年(1624年)哲州和尚によって開山されました。

江戸六地蔵の2番札所になっていること以外、あまり情報のない寺院です。境内に入ると、柵が巡らせてあって建物に近づけません。関係者以外は外から参拝してくださいね、というメッセージなのでしょう。1番札所の品川寺真言宗醍醐派でしたが、2番札所の東禅寺曹洞宗で、ご本尊は釈迦如来坐像です。

六地蔵と本堂を正面に見て左側に男性と女性の銅像があります。こちらはあんパンを考案した木村屋(現在の木村屋總本店)創業者の木村安兵衛夫妻の銅像です。銀座木村屋の創業者がここ東浅草の地に眠っているのは不思議な感じですが、そんな事を考えているとあんパンを食べたくなってしまいます。

東禅寺地蔵菩薩坐像

東禅寺地蔵菩薩坐像は、宝永7年(1710年)江戸六地蔵の中で2番目に造られました。最初に作られた最大の品川寺のお地蔵様より4cm低い271cmです。他のお地蔵様と同じく銅造なのですが、東禅寺のお地蔵様は他のお地蔵様と違い、鍍金加工されていません。今となっては全て緑青に覆われつつありますが、弁柄色の漆塗りに金箔を貼ったという特徴があります。江戸六地蔵はそれぞれ担当している街道があるのですが、東禅寺の近くにある街道は、分岐前の日光街道奥州街道水戸街道があります。分岐前なので同じ道路なのですが、一応その中から奥州街道を担当しています。

奥州街道 千住宿

それでは、東浅草2丁目の東禅寺から、最初の宿場町である千住宿へ向かって歩いていきたいと思います。奥州街道ということですが、日光街道水戸街道も同じ道です。日光街道との分岐は栃木県の宇都宮宿で、水戸街道との分岐は千住宿です。という訳で、なるべくサクサク歩いて行きますので、東海道の時と同様に、散歩気分でお付き合いください。

東禅寺の直ぐ近くに、駿馬塚という史跡があります。説明書きによりますと、平安時代の康平年間(1058-1064年)に源義家陸奥へ向かう際、この地で愛馬「青海原(あおうなばら)」が絶命し、これを葬った場所と伝えられています。現存する塚は明治28年造立の石碑や石造層塔の一部を遺すのみですが、江戸時代後期には土饅頭型の塚や駿馬塚と記した石碑が建っていたとされています。現在も馬頭観音として近隣の方々に大切にされているとのことです。おそらく、江戸時代に奥州街道日光街道水戸街道へ向かう人々は、この六地蔵のそばにある駿馬塚の噂を聞いて、道中の馬の安全を祈願したことでしょう。

駿馬塚から更に進んでいくと、個人的にとても懐かしい珈琲の名店「バッハ」の前を通り過ぎました。若い頃、珈琲と喫茶店に凝っていた時期があり、自宅で生豆から焙煎したり、喫茶店を巡るサイトを作ったりしていました。南千住のバッハは当時から超有名店でした。20年以上前の話ですが、バッハは相変わらず繁盛しているようで良かったです。神田の伯剌西爾やミロンガ、新宿の凡や但馬屋、表参道の大坊珈琲店、赤坂のコヒアアラビカ、千歳船橋の堀口珈琲などなど、いろんなお店に行った記憶が蘇ります。そんな感傷に浸って歩いているとJR南千住駅に到着。ここで浄土宗延命寺に立ち寄ります。

この延命時は、隣にある回向院から分離独立した寺院だそうですが、そもそも隣の回向院は両国の回向院の分院です。延命寺の境内に日蓮系宗派の曼荼羅本尊の書体のような「南無妙法蓮華経」の大きな石碑が建っていて、日蓮宗なのだなと思いましたが、元が回向院なので浄土宗なのだそうです。不思議なお寺ですが、ここは宗派よりも江戸幕府の小塚原刑場跡地であることが重要です。小塚原刑場は火罪(火あぶりの刑)・磔(はりつけ)・獄門(さらし首)といった強烈な死刑や無縁仏の埋葬・供養、刀の試し斬り(罪人の体を斬る)、腑分け(解剖)などが行われていました。首切地蔵は寛保元年(1741年)に、無縁仏の供養のために造立された延命地蔵菩薩です。

千住大橋を通って隅田川を渡ります。この橋を渡ると宿場町っぽい雰囲気になります。千住大橋徳川家康が江戸に入府してすぐの文禄3年(1594年)に架橋されました。架橋したのは玉川上水も手掛けた土木工事の大家である伊奈忠次です。こんな時代に120mもある橋をかけるというのは相当大変だったようで、最後は熊野権現に神頼みしてうまく行ったそうです。

橋を渡ると、さっそく日光道中千住宿の標識がありました。日本橋を出て、最初の宿場町となります。次の宿場町は埼玉県の草加宿です。宇都宮までは日光街道奥州街道は同じ道になります。

この千住大橋の北詰は、松尾芭蕉奥の細道に出発した所でもありますので、千住宿には芭蕉関係の史跡も多く見られます。

千住宿の南側には屋号と説明書が張り出されているところがたくさんあります。これは江戸時代から昭和前半にかけて、当地が巨大な青物市場だったことの名残で、市場の問屋さんの屋号なのです。宿場と市場が混在する町なので、千住宿の人口は前回歩いた品川宿を大きく超える規模でした。そういえば、品川宿にも青物横丁がありますね。問屋を営むには大きな土蔵が必要で、写真の下の方には土蔵の鬼瓦が置かれています。

「やっちゃ場」の「やっちゃ」というのが、セリで使われていた掛け声で、至る所でセリが行われていた千住の市場のことをやっちや場と呼んだそうです。こちらは千住歴史プチテラスというギャラリーです。紙問屋だった横山家から寄贈された藏を移設してギャラリーにしています。

こちらは昭和5年の街道沿いの千住市場の配置図です。問屋と団子屋と飯屋がずらりと並んでいます。千住の市場には投師(なげし)という職業の人がいて、自分の得意な分野の青物を安く仕入れて高く売る、店舗を待たない問屋のような仕事をしたそうです。今で言うとブローカーですね。そのために千住市場では朝3時頃から人々が芋洗い状態に集まり、セリの声が響き渡っていたそうです。

墨堤通りを横切ります。見えているのは浄土宗源長寺の山門です。山門の前に「掃部宿門旧跡 延命子育て地蔵」という祠があります。千住宿の構成を見ますと、元々の千住の町を本宿、追加された千住掃部宿・千住河原町千住橋戸町を新宿、最後に追加された橋を渡った中村町・小塚原町を南宿(下宿)となっています。この墨堤通りから掃部宿と呼ばれるエリアに入るということなのでしょう。

旧街道はこんな感じで、商店街でも住宅街でもなさそうな建物が並んでいます。それでもなんとなく旧街道の雰囲気が漂っていますね。

「掃部宿(かもんじゅく)憩いのプチテラス」という公園です。掃部宿は有力商人が多く集まり、ヒト・モノ・カネが集まる場所には文化が流入するので、千住宿の中でも絵や文などの芸術家が集まる町となっていました。後に千住仲組となり、現在は千住仲町となっています。

地下に千代田線が走る、大踏切通りを横切ります。ここから先は一気に商店街の雰囲気ですね。千住ほんちょう商店街が始まり、千住宿の賑やかな場所に入っていくことになります。角にある足立成和信用金庫の入口横に、チェーンソーアーティストの方が作製した松尾芭蕉の木造が建っています。

ここに一里塚があります。日本橋から千住宿までは二里という距離です。

近くに千住高札場の跡地を示す石碑もありました。

商店街に入っていきますと、東京芸術センターという公的機関や民間企業が入ったビルの前にタイル敷きの広場があります。この広場が千住宿問屋場と貫目改所の跡地なのだそうです。

このような広場で、人々が行き交う場所です。ウロウロしていると、何かの勧誘の方に声をかけられてしまいました。

この広場の地面には「問屋場跡」「貫目改所跡」「荷さばき場跡」のプレートが埋まっています。親切なことですが、なかなか気付かれないですね。こういう気付かれない仕掛けを設けるの好きですけどね。

JR「北千住」の駅前通りを横切ります。このあたりが一番の繁華街でしょうか。旧街道の商店街も、宿場町通りという名称になりました。

100円ショップの前に千住宿本陣跡の石碑がありました。千住宿には本陣が1軒、脇本陣が1軒、旅籠が55軒設置されていました。飯盛女(遊女)を置いて良い旅籠が50軒ほどあったそうです。本陣は秋葉市郎兵衛という方の屋敷だそうです。

商店街ですがアスファルトではないので、街道の雰囲気を感じることができます。この少し手前に「千住 街の駅」という資料館的なところがあったはずなのですが、どういう訳か素通りしていました。まっすぐ先へ伸びていますね。どんどん歩いていきましょう。

千住ほんちょう公園の入り口は、宿場町っぽい造りになっています。左の高札場的な掲示板は読みづらくてあまりわかりませんでしたが、江戸時代に千住が宿場町として非常に栄えていたことや、そんな歴史を大切にしていきたい、というようなことが書かれていました。どうせなら当時本当に高札に書かれていたことを、例として書いていただけると良いと思いました。

ここまでは石碑だったり、絵地図だったり、説明書きだったりしましたが、ここからは本物の建物が登場します。こちらは江戸時代の絵馬屋さんだった吉田家です。説明書きによりますと、江戸中期から吉田家は代々絵馬を始め地口提灯や凧などを書いてきた際物問屋だそうです。際物というのは、ある時期だけ売れる商品だそうです。現在も続いていて、当代は八代目だそうです。

こちらは横山家住宅で、江戸時代は地漉紙(じすきがみ)問屋だったそうです。宿場から宿場へ人や物が移動するために馬を使うことがありますが、宿場の機能として伝馬を負担した者には年貢を免除したり伝馬屋敷が与えられたりしたそうです。横山家は裕福な商家で、伝馬を負担していたそうです。

こちらも古い住宅兼店舗で、ヤマダヤ洋品店跡です。ふくよかサイズ、Lサイズの店だったそうですが、江戸時代には別のお店だったと思われます。横山家住宅もそうですが、二階部分が低く見えます。そして2階の窓の格子が細かいです。

街道らしいと言いますか、ずーっと真っすぐな一本道を歩きてきましたが。ここでついに水戸街道との分岐が現れました。進行方向(北)へ行くと旧日光道中、つまり日光街道奥州街道です。東へ行くと旧水戸佐倉道、つまり水戸街道となっております。ここは北へ行きます。

するとまたすぐに分岐の道標がありました。進行方向(北)へ行くと旧下妻道、左に曲がると旧日光道中です。もう荒川の土手が見えているのですが、左に曲がります。

するとこんな風景です。街道っぽさは無くなってしまいましたが、もう荒川の土手が見えますね。なぜか荒川にあたる直前で左に大きく曲がりました。この先には千住新橋があるのですが、橋の下を通り過ぎて氷川神社に立ち寄りましょう。

氷川神社の中にある石碑ですが、こちらは紙すき碑というそうです。先ほどの横山家が再利用の紙すき問屋だったのですが、足立区では江戸時代から紙すき業が盛んだったそうです。天保14年(1843年)に幕府の命により、地すき紙を献上したときの記念碑だそうです。「すきかえしせきするわさは田をつくる ひな賤らにあにしかめやも」という歌が刻まれています。紙作りは稲作にも劣らない仕事だという自讃の歌だそうです。

こちらも氷川神社内にあります、旧千住新橋の標柱です。千住新橋は大正13年に完成した橋です。地盤沈下のために何度か大がかりな改修工事をしましたが、昭和51年(1976年)に新しい橋を架け変えることになりました、その際に古い橋の標柱を、地元の皆さんの希望と氷川神社の協力のもと、ここに置かれることになったそうです。

江戸時代にはここに荒川は無かったので、さっきまで歩いていた奥州街道日光街道)は、土手に当たることなく続いていました。大正2年(1913年)から昭和5年(1930年)にかけて開削された人工河川がこの荒川放水路です。人工の川と聞くと、金八先生も色褪せる感じですが、多摩川でも経験したように河川敷は多くの方に愛されています。千住新橋を渡ってもまだ東京都足立区ですが、この先奥州街道は埼玉県に入り谷塚を通って次の草加宿に向けてほぼまっすぐ伸びています。日本橋と千住は近いので、江戸から東北を目指す方は、ここからが旅の本番という感じだったでしょうね。

 

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