江戸六地蔵・番外編 浄名院
江戸六地蔵の6番目の札所は、廃寺になった永代寺です。明治維新による廃仏毀釈で永代寺の地蔵尊は寺院ごと破壊されてしまいましたので、その代わりとして江戸六地蔵の6番目を名乗っている寺院があります。
それがこちら天台宗浄名院です。山門に掛けられた表札を見ますと、「東叡山浄名院」と書かれています。叡山というのは天台宗の総本山である比叡山のことです。東の比叡山ということですから、東叡山は上野にある天台宗の大本山・寛永寺のことを意味します。浄名院というのは寛永寺の塔頭のひとつなのです。塔頭というのは、高僧が亡くなるとその弟子が師の徳を偲んで境内に墓や小さな寺院を建てたことに由来します。そこから大寺院内に付随するような寺院を塔頭と呼ぶようになります。寛永寺には三十六坊と呼ばれる塔頭があり、浄名院はそのひとつとして建立されました。門の左側の屋根瓦が剥がれ落ちているのが気になります。
現代寺院が抱える事情として、人々が仏教をお葬式にしか求めないという、いわゆる「葬式仏教」の問題があります。葬式仏教の世の中で寺院を運営するためには、一定数以上の檀家を保持して、定期的にお葬式を依頼されることが必要です。そうでもなければ、授与品や祈祷などに対する財施が多く集まるような、毎日多くの観光客が訪れる寺院であれば運営できます。逆を言えば、一定数の檀家がいない、観光客も少ない寺院は、運営していくことができないということになります。葬式仏教の世の中では、檀家と菩提寺の繋がりは、ほぼお墓に集約されます。だから、都市への人口集中によって過疎地の寺院から無住化していって荒廃していくのです。そして、この浄名院には墓地がありません。
こちらが「江戸六地蔵 第六番 納めの地蔵尊」です。永代寺が廃寺になり、6番目の地蔵菩薩坐像は破壊されました。そこで6番目の地蔵尊を復活させるために、また日清日露戦争の戦没者追悼のために、明治39年に浄名院の地蔵菩薩坐像が建立されました。しかし、江戸六地蔵は宝永3年(1706年)に深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から広く72000名以上の寄進を集めて、神田鍋町の鋳物師太田駿府守藤原正儀によって鋳造されました。宝永5年から亨保5年(1708-20年)にかけて鋳造され、江戸の街道を守る地に配されました。そのような江戸六地蔵に共通する歴史が刻まれていない浄名院の地蔵菩薩坐像を「江戸六地蔵の六番目」と称することに抵抗感を持つ方々もいらっしゃるようで、他の札所寺院でも賛否両論なのだそうです。
浄名院は寛文6年(1666年)に寛永寺の塔頭として開山されました。徳川4代家綱の生母宝樹院の菩提寺で、当初は浄円院、亨保8年(1723年)に浄名院に゙改称されました。浄名院の境内には、お地蔵様がたくさんご安置されています。かつてインドで釈迦の入滅後100年後に現れたとされるアショカ王は、仏教を保護して8万4千の石宝塔を建立しました。このことに倣って、明治12年に浄名院38世妙運和尚が8万4千体の石地蔵尊建立を発願しました。
江戸時代の寛永寺は徳川家菩提寺として総本山である比叡山延暦寺や、家康の菩提を守る日光輪王寺を凌ぐ勢力を誇っていました。ここで素晴らしいのは、独立したり分裂したりすることなく、延暦寺と輪王寺と寛永寺のトップを輪王寺宮というひとつのポジションにして、皇族から輪王寺宮を招いて宗門の隆盛を維持したことです。浄名院の8万4千体地蔵尊の発願も寛永寺の輪王寺宮からの支持を受けて、旧殿上人や華族、財閥、梨園の花形など多くの賛同者を集め、今日も続いています。
へちま地蔵尊という、へちまを持ったお地蔵様がいらっしゃって、旧歴の8月15日(十五夜)に「へちま加持祈祷会」という行事が営まれます。咳や喘息に功徳があるとされていて、その日は多くの方々が参拝されるのだそうです。それでは、浄名院のズラリと並んだ地蔵尊の集合美をご堪能ください。
特別企画としてお送りしてきました「江戸六地蔵+街道」ですが、以上の番外編を持ちまして全て終了です。江戸時代の街道や宿場の名残りを探して、令和の東京を歩きまわりました。朝2時から商売をした仲買人、150年の歴史を閉じた店、家光と禅問答する沢庵和尚、宿場町の墓地に葬られた遊女、目に見える跡形は消えつつありますが、「その時代を生きた人々の生活」は私が歩いたそこかしこに、確かに存在したのです。
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