日枝神社 目次
名称・旧社格
創建
不詳ですが、文明10年(1478年)、太田道灌が川越日枝神社から勧請したことが始まりとされています。
御祭神
大山咋神(おおやまくいのかみ)
みどころ
独特の山王鳥居から階段を上がる境内は永田町の象徴でもあります。徳川家の庇護を受け、江戸の山王信仰の拠点として人々の信仰を集めました。江戸三大祭「山王祭」が有名です。
アクセス
東京都千代田区永田町2-10-5
東京メトロ千代田線「赤坂」徒歩3分
探訪レポート
外堀通りを走っていると、首相官邸の近くに嫌でも目立つこの鳥居、こちらは山王鳥居という種類の鳥居で、日吉大社系の、日吉神社、日枝神社、山王神社などに特有のものです。いわゆる山王信仰というものなのですが、笠木の上の山が特徴の鳥居です。ここは江戸三大祭の山王祭で有名な、溜池山王の日枝神社ですから、山王信仰の王道を行く神社です。エスカレーターのついたきれいな階段を登ります。しかし、ものすごい良い天気ですね。
階段を上がったところにある茶房と、 結婚式の披露宴会場です。この、外堀通りから上がってくる参道は、神社の側面に到達する感じで、正面ではありません。さて、日枝神社に深く関わる「山王」って何? ということですが、最澄が唐から戻って比叡山を開山するあたりの話になります。比叡山はそもそも、日枝の山(ひえのやま)と呼ばれていて、日枝の山の神様として「大山咋神(おおやまくいのかみ)」を祀っていた日吉大社がありました。後に天智天皇が奈良(大和国)の三輪山から「大物主神(おおものぬしのかみ)」を勧請し、共にお祀りしました。そこに唐から戻った最澄が延暦寺を築いて、日吉大社が祀っている神々を延暦寺の守護神と位置づけて、最澄はその神々のことを「山王」と呼んでいたのです。これは、遣唐使時代に、唐の天台山で守護神として山王〇〇という神を祀っていたのを見たので、真似をした訳です。神仏習合の世の中でしたから、日吉大社も延暦寺に飲み込まれます。日吉大社だけでなく、祇園の八坂神社も、比叡山延暦寺とひとつになっていました。
そうして、比叡山の山岳信仰と神道と天台宗が習合した神、山王権現が生まれ、神仏習合の山王信仰は延暦寺内で長年に渡り中心的な役割を果たし、延暦寺や日吉大社から全国へと勧請され、人々の信仰を集めていくのです。
当ブログで紹介した蔵王権現や飯縄権現も同様ですが、権現様として信仰を集めていても、明治維新の神仏分離令によって一変してしまいます。日吉大社は山王権現を祀るのをやめて、そもそもの主祭神だった大山咋神や大物主神を祀るようになります。それでも信仰がパッと切り替わる訳でなく、今でも山王さんと親しまれているということです。ところで、蔵王権現も飯綱権現も固有の形相があるのですが、山王権現はよくわかりません。眷属が猿だとか言われていますが、勉強不足でこれが山王権現像というのをはっきり見たことがありません。また学ぶ機会があったらご紹介しますね。
こちらが神社の向き的には正面入口で男坂と呼ばれています。せっかくなので一度下りてまた上がって男を見せたいところですが、暑いのでやめました。さて、では東京永田町にあるこの日枝神社は、いかな歴史を歩んできたかなのですが、創建はよく分からないそうです。江戸を開拓した江戸氏が地内の守護神として山王社を祀り、更に江戸城を築いた太田道灌が、築城にあたって鎮護の神とすべく、城内に山王社を建て、川越の無量寿寺の鎮守である川越山王社(川越日吉神社)を勧請しました。それが1478年で、ここが日枝神社の始まりといわれます。ちなみに川越の無量寿寺を建立したのは、前回ブログの高幡不動尊の回に登場した慈覚大師円仁です。
手水舎はやはり柄杓が置いてませんでしたが、手を清めることはできるようになっています。徳川二代秀忠が江戸城改築の際に、山王社を江戸城外に移します。境内が整備され一般庶民も参拝できるようになりました。 1657年、明暦の大火で焼失してしまい、徳川四代家綱が1659年に現在の地に移しました。現在の社殿は、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失し、昭和33年(1958年)に再建されたものです。東京の寺社は、明暦の大火、関東大震災、東京大空襲のいずれかで焼失という歴史が多いです。特に東京大空襲で失ったものの価値はプライスレスすぎて歯痒い思いです。
隋神門はそのまま境内をぐるりと囲む塀になっています。 極彩色がとてもきれいです。隋神門の中に何故か猿がいます。ちなみにお寺の屋根は瓦が多いのですけど、神社って瓦屋根はないんです。神仏習合しまくっていても、そこだけは譲らないということで徹底されています。日枝神社は、当ブログでは明治神宮以来二社目の旧官幣大社ですが、東京で官幣大社に認定されたのは、明治神宮と日枝神社のみです。ただ、明治神宮が創設と同時に官幣大社だったのに比べて、日枝神社は努力の末に根性で掴み取った官幣大社という感じです。
拝殿前の狛犬が、なぜか猿です。これはもう日枝神社は猿なんだってアピールですよね。ここには獅子だったり山犬だったり狐だったり、その神社の神の使いがいる場所ですが、それが猿なんだから日枝神社は猿です。さてさて、 官幣国幣とは別の社格として、勅祭社というのがあります。これは神社が祭祀を行うに際し、天皇から勅使が遣わされた神社で、東京だと明治神宮と靖国神社のみです。東京近郊含め准勅祭社というのもありましたが、昭和天皇が在位50年の時に東京都内の准勅祭社が協議して、「東京十社」という観光的な組織を立ち上げています。日枝神社もそのうちの一社なのですが、これまで当サイトで紹介した東京十社は、神田神社、芝大神宮の二社です。また紹介する機会があると思いますし、できればコンプリートしたいです。色々と社格や異名はありますが、明治維新以降日枝神社が推しているのが「皇城の鎮」という肩書きです。江戸城を守るために建立されたのですから、原点回帰で良いですね。
この回廊、なんとなく味があるというか、いいですよね。 こういうところを白無垢の花嫁さんが通ると、Oh. Japanese! って感じですよね。コロナがなければ、オリンピックでたくさんの外国人観光客が訪れて、日枝神社も観光客で溢れていたでしょうね。
御守りやら御朱印やらいただける所です。やはり猿の御守りが売っています。調べると、公式HPに猿と日枝神社の関係が書かれてありました。山王権現との直接的な関係は書かれていませんが、大山咋神が山の神で、山の守り神の猿が神の使いとなっているとのこと。猿の訓読みにちなんで「勝る」だとか、猿の音読みにちなんで「縁」だとか、書かれていましたが、これはきっと明治維新以降の教科書的な説明で、江戸山王権現社として存在した日枝神社は、猿がおおいに関わった山王権現の姿を隠しているに違いない。ま、自分で調べて勉強しなさいということでしょう。
本殿の真裏に末社があります。日枝神社の主祭神は先述の大山咋神となります。その他、相殿に国常立神(くにのとこたちのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)をお祀りしていて、末社には猿田彦神社、八坂神社、山王稲荷神社をお祀りしています。この鳥居(↑)は台輪鳥居と言って、稲荷神社によく見られる鳥居です。しっかりと整えられた末社で、例祭なども一般参加可能な形で行われています。この他、摂社として、日本橋日枝神社があり、山王御旅所として山王祭の神幸祭の神輿の御旅所となっています。
この千本鳥居は、映えるスポットとして大人気なようで、長時間の撮影はご遠慮くださいとなっていました。奥の方まで連なって階段を上がっていく鳥居のスロープは、内側から見るとなかなか幻想的です。が、これ、写真に収めようとすると、かなりの時間人を止めなくては誰かが映り込んでしまいます。ここでは写真に収めず、記憶に残すように目に焼き付けましょう。いつかコロナが終息し、規制なしの山王祭が行われたら、レポートしに行きたいと思います。
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