とある寺院のサイトに、死んだ後の顔を見られたくない人のお話が書かれていました。たしかに、闘病でやつれた姿を他人に見せたくないという気持ちはわかります。中には元気だった頃とは別人のようになってしまう方もいます。
地域差はあると思いますが、お葬式の最後の方で棺の蓋を開けて、参列者が花を手向けて故人とお別れをします。蓋を閉じる前に、葬儀社は「お顔をよくご覧になってお別れしてください」と遺族に声をかけます。炉前でも棺の窓を開けて同様のことを言います。この住職さんはその時に、死後の顔を記憶する必要はないから、「ご遺影の元気な時の顔を記憶してください」と必ず訂正するのだそうです。
住職さんの考えはわかりますが、葬儀社側の立場でこれをやられると大変困ります。できるなら、事前に「こういう考えでやるから」と言っておいてほしいです。それであれば葬儀社は僧侶の考えに合わせます。僧侶が葬儀を司るので、僧侶はある意味ルールブックなのです。どんなに理不尽でも不条理でも独善的でも、僧侶の言ったことが正解になるのです。ほとんどの人が意味を理解できないお経や作法によって故人が成仏できると信じられているのは、それを行う僧侶(仏教)がルールブックだからです。葬儀に関しては、白いものでも僧侶が黒といえば黒なのです。そこを踏まえて発言してほしいです。故人には絶対に成仏してほしいので、僧侶が否定するものを喪主は絶対に肯定できません。つまり葬儀社が悪者になるしか落とし所がなく、変な空気になって大変困ります。と愚痴りましたが、これは本題ではありません。
さて本題へ。記憶できる誰かの顔が1つだけなら、それが元気な頃の顔が望ましいというのはわかります。当ブログのコラムでも書いたことがあると思いますが、私自身は「死にゆく姿=生きようとする姿」だと思っています。だから「死んだ顔=生きた顔」なんだと思います。その顔はやつれていても命の尊さに満ちていて、生きようとする強さや命の儚さを伝える力があると信じています。本当に親しい人だけがその姿を見せてくれて、その尊さを教えてくれます。元気な頃の顔も、病気でやつれた顔も「生きた顔」です。元気な顔だけ都合よくピックアップして、他には目を背けて記憶しないで済ませたら、他人の痛みに無頓着な人間になってしまい、簡単に人を傷つけたり殺したりするようになってしまうのだと思います。
もうひとつ違う角度から見ると、故人の遺志に関わらず、参列者の多くは故人の亡くなった後の顔を見たいと思っています。見たいと書くと不躾ですが、対面したい、会いたい、触れたい、想いを面と向かって伝えたいと思っている方がいます。中には好奇心で見たい方もいるとは思いますが。
冒頭の住職さんは医師でもあるそうで、亡くなるとすぐに細胞が壊れ始め、故人の顔は生きていた頃と違う顔になり、その変化を確認することに意味はないというお考えです。これは仏教的な側面も感じさせる意見です。魂は骸を離れ・・というような。それが科学的な見た目の問題なら、現代では納棺師による復顔やメイクの技術で、その変化を巻き戻すこともできます(見た目だけですけどね)。前述のように、故人の顔を見たい人は、会いたい触れたい想いを伝えたいと思っているので、変化を確認したいとは思っていません。なので、故人に会って触れて想いを伝えることに意味がないとは思いません。
見た目の問題で言うと、例えば孤独死による腐乱や火災や事故による損傷などで、家族でも直視できないような場合もあります。それも「生きた顔」なのだから見てくださいとは思いません。葬儀において故人の尊厳は何より優先に守られなければなりません。例えば闘病で頭髪が抜けてしまっている姿を、そのまま見せるのは故人の尊厳を傷つけることになります。葬送の場には故人の遺志のみがあるのではなく、遺族の意志、僧侶の意志、参列者にも意志があります。どの意志をどのように汲み取るかは正解のない問題で、その時々の状況に応じて相談して決めたら良いと思います。
いろんな意志があっても、自分の死後は自分の意志で決めたいというのは当然の感情です。私自身は、生前に関わってきた誰かの未来のために、堂々と生きてきた顔を見せてあげてほしいなと、心の中では思っています。しかし、死に顔を見られたくないというのが故人の遺志であれば、たとえ穏やかで美しい姿でも、見せない葬儀をしたいと思っています。決定権は喪主にあるので、喪主に従いますが、見られたくない判断基準って、本人にしかわからないですからね。死んだ後の自分の姿を見せたくない人は、亡くなってからではその意志を伝えることができないので、生きている間に家族にそのことを伝えておく必要があります。ただ、家族にも見られたくないというのは不可能だと思ってください。生前に伝えておかないと、おそらく一般会葬者にもお別れのお花入れで顔を見られてしまい、葬儀社が「最後なのでよくお顔をご覧ください」と言い、僧侶が「死後の顔ではなく、ご遺影の元気な頃の顔を記憶してください」と訂正して、変な空気になります。
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