武蔵野八幡宮 目次
名称・旧社格
創建
延暦8年(789年)に、坂上田村麻呂が現在の水道橋駅付近に、宇佐神宮の分霊を勧請したことが始まりです。
御祭神
誉田別尊(ほんだわけのみこと)・比賣大神(ひめおおかみ)・大帯比賣命(おおたらしひめのみこと)
みどころ
吉祥寺の繁華街を抜けたところにある、緑に囲まれた吉祥寺の鎮守の神様です。
アクセス
JR中央線「吉祥寺」徒歩10分
探訪レポート
吉祥寺駅北口から商店街を抜けたところ。五日市街道沿いにある武蔵野八幡宮に行ってまいりました。境内に入るとまず左側に石塔が二基現れます。右の判読不能のものは庚申塔だそうです。左の石塔は天明5年(1785年)に造られた道標で「神田御上水 井之頭辨財天」と彫られています。これは吉祥寺駅の南側、井の頭公園内にある井の頭弁財天のことです。神田川の水源である井の頭池は、江戸の庶民の生活用水として武蔵野三大湧水地のひとつに挙げられていて、江戸庶民には欠かせないものでした。それだけに水源地である井の頭池に鎮座する弁天様は庶民からの信仰を集め、遠方より参拝する方も多かったそうです。この道標は、そもそも八幡宮前の交差点の対角にあったそうですが、井ノ頭通りへ移設されたり、東京江戸たてもの園に移設されたりしていたそうです。現在でも同様の道標を見ることができます。人見街道から井の頭公園通りという道が公園に向かって伸びていますが、最後の方で辨財天に向かう参道と分岐します。その分岐点に黒門が建っていて、黒門脇に現在も「神田御上水源 井之頭辨財天」と書かれた道標が建っています。
手水舎はセンサー式のものでした。さて、祐天寺や豪徳寺など、これまで当ブログでも訪れた寺院の中に、寺院名=地名=駅名になっているような寺院が結構あります、JR中央線でも高円寺や国分寺がありますね。では、吉祥寺はどこに? という話は結構有名なので、私が知ったかぶって語るのも厭らしい話ですが、そういうブログなのでご容赦ください。吉祥寺は現在は文京区本駒込にあります。仕事で何度か訪問したことがあるのですが、かなり敷地の大きな立派な寺院です。江戸の大半を焼き尽くした明暦の大火によって、当時の吉祥寺村(現在の水道橋駅付近にあった吉祥寺の門前町)の住人は居住地や田畑を失ってしまいます。そんな吉祥寺門前の住人を対象に、幕府が当地(現在の武蔵野市東部)へ移住キャンペーンを実施しました。移住すれば様々な優遇が受けられるというものです。この武蔵野八幡宮も住民と共に当地へ移住してきました。そして当地は「吉祥寺」という地名となり、玉川上水の開通もあって発展します。しかし、寺院の吉祥寺はどういう訳か本駒込に移転しているというお話です。
こちらは戦後紀念碑と書かれています。寺社を訪れると戦争の記念碑をたくさん見かけます。これらは全て戦没者供養のために建てられたものなのでしょうか。日本人として戦後教育を受けると、戦争=悪ということで全ての戦争経験を塗り潰されてしまうのですが、明治~大正時代は日露戦争に勝って国際的な地位は高かったと思われます。鎖国していた日本でしたが、日露戦争が高い国際的地位を与えた=善と理解されていたのではないかと思います。東郷平八郎や乃木希典が英雄になったのは日露戦争の功績のためで、彼らが良い人だったからではありません。この字を書いた寺内正毅という人は明治・大正の軍人政治家で、日露戦争の頃には陸軍大臣をしていた人です。戦後というのはおそらく日露戦争後ということですから、戦没者追悼というよりは、自分が指揮して大勝利したという記念ではないかとも思います。戦争=悪という教育を受けると、出征した人は全て犠牲者ですが、このような記念碑には、戦争で功績を上げた英雄を称える記念碑などもあったのではないかと思うのですが、いかがでしょう。
神輿庫がありました。庶民とともに火災に追われこの土地にやってきてくれた神様を、吉祥寺の住民は鎮守の神として大切にしています。武蔵野八幡宮の例大祭は、現在では武蔵野市が市をあげて行う「吉祥寺秋祭り」となっています。
こちらはなんだかよくわかりませんが、形的には神楽殿のようです。プレハブですね。シャッターもあって、ちょっと違和感があります。あと、狭いですね。倍はあっても良かった気がします。
笑顔に見える狛犬をすぎると、境内が神域として深まるように感じます。
境内社がまとめられた社殿があります。大鳥神社、出雲神社、三島神社、疱瘡神社、須賀神社、稲荷神社、厳島神社とあります。
この社殿の扉の裏に、このような可愛らしい彫刻がありました。
「奉納 随神」と書かれていて、奉納したのは(北)睦消防一區一番組と書かれていました。昭和30年となっていたので68年前です。奉納された随神は拝殿か本殿にご安置されているのかなと思われます。
さて、最奥に拝殿があります。この神社は延暦8年(789年)に現在のJR水道橋駅付近に、日本史で習う坂上田村麻呂によって、宇佐神宮の分霊を勧請して創建されました。宇佐神宮は八幡信仰の総本社なので、武蔵野八幡宮も八幡信仰の原点のような信仰を守っていると思われます。主祭神は八幡三神と称される、誉田別尊、比賣大神、大帯比賣命の三柱です。坂上田村麻呂は征夷大将軍に2度も任命されるなど武名の高い武官で、自身も武神・軍神として祀られています。そんな坂上田村麻呂が勧請したのは武の神様である八幡神なのです。八幡神は誉田別尊=応神天皇とされていますので、天皇の祖先とされる天照大御神の伊勢神宮に次いで、天皇の祖先を祀る神社として位置づけられています。有名な話では、道鏡という奈良時代の僧が宇佐八幡の託宣を受けたと言って天皇に成り代わろうとした事件が起こっています。八幡神社は誉田別尊よりも、大帯比賣命=神功皇后(応神天皇の母)の方が強烈なので、また別の八幡神社を訪れた際に知ったかぶりたいと思います。
武蔵野八幡神社の創建当時は、現在の水道橋駅付近に、おそらく神仏習合の八幡大菩薩が祀られていたのではないかと思います。家康が江戸にやってきて、江戸城内にあった吉祥寺が移転してきて、人々が集まり発展し門前町を形成します。明暦の大火で全てが焦土となり、八幡神社は住民と共に武蔵野の地に移ったという歴史。ここで思うのは、だったらここの地名は、吉祥寺ではなくて八幡町で良かったんじゃないのかということです。
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