高野山真言宗 放生寺 目次
名称・寺格
光松山 威盛院 放生寺 と称する、高野山真言宗の寺院です。寺格は準別格本山です。
創建
寛永18年(1641年)に、隣にある穴八幡宮の別当寺として、良昌上人によって建立されました。
本尊
聖観世音菩薩
みどころ
穴八幡神社に隣接していますので、セットで訪問し、神仏習合の時代に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?
アクセス
東京都新宿区西早稲田2-1-14
東京メトロ「早稲田」徒歩3分
探訪レポート
神仏習合の時代には、神社の運営を寺院の僧侶が行うことがありました。神社の境内に寺院を建立したり、神社に隣接する場所に寺院を建立したりしていました。神宮寺や別当寺などと称しますが、放生寺は穴八幡神社の別当寺として建立されました。高野山真言宗の準別格本山とのことですが、空海が興した真言宗も多くの宗派に分派しています。高野山真言宗は高野山金剛峰寺を本山とする、全国的には最も大きな真言宗の宗派です。関東では真言宗豊山派や真言宗智山派の寺院の方が多いですが、港区高輪に高野山金剛峰寺の別院があります。
「言の葉の碑」という石板プレートが数多く並んでいます。放生寺は後継者の要らない永代供養墓地の開発が進んでいる寺院で、会員制度を設けて、墓地の利用者向けの様々なサービスを備えています。言の葉の碑は、墓地利用者が後世に残したい言葉を展示しています。例え後継者がいなくても、ひとりの人生の中の輝いた言葉を社会の誰かに残すことができるのは、大きな魅力だと思います。
緩やかな坂道を登って境内にたどり着くと、手水舎があります。修行僧風の看板は、「こうやくん」という高野山真言宗のキャラクターだそうです。高野山真言宗と、東京に多い真言宗豊山派や智山派との違いを超簡単に説明しますと、空海が真言宗を開いたのは平安時代ですが、その平安時代の途中で、早くも高野山の僧侶たちの堕落による宗派没落の危機が発生しました。そこで高野山の大伝法院を建立した興教大師覚鑁が改革に乗り出しますが、改革派と保守派に分かれて対立してしまい、覚鑁の改革派は根来に移って新しい真言宗「真義真言宗」を立ち上げました。時代は流れて戦国時代、根来の僧たちは僧兵として武力組織の勢力を増していて、豊臣秀吉が彼らを討伐しました。その時に奈良の長谷寺に逃げた僧が長谷寺を本山とする豊山派を興し、高野山に逃げた僧たちが京都の智積院を本山とする智山派を興しました。教義的な差もありますが、歴史の中の勢力争いによって分派していった要素が大きいように思います。
こちらは放生池と放生碑です。正面の大きな石碑には「放生供養碑」と刻まれています。放生というのは、捕らえた魚、鳥、動物などを殺生しないで自然界に放す行事で、各地の八幡宮で行われていたそうです。私たち人間が日々いただいている命に感謝し、供養することを目的としています。毎年スポーツの日にこの池に魚を放って放生会がおこなわれているのだそうです。右奥の仏像は馬頭観音です。
本堂は階段を上がったところにあります。放生寺のご本尊は聖観音菩薩です。放生会を行っていることが寺院の名前にもなっているくらいですから、江戸時代には虫封じのご利益で有名だったそうです。虫封じというのは、子供の疳の虫を封じることです。他に「一陽来福」のご利益が有名です。穴八幡宮でも一陽来福のお守りが授与されていて、元々は同じであったことが伺えます。穴八幡宮の記事でも紹介しましたが、一陽来福のお札は毎年変わる恵方に向けて、冬至、大晦日、節分のいずれかの午前0時に貼るという決まりがあります。
左のお堂は神変大菩薩、つまり修験道の開祖と言われる役小角をご安置しているお堂です。真言宗や天台宗の寺院で多く祀られています。山の中を歩きまわる山伏の祖ですから、現代では足腰強化のご利益を求める方が多いようです。草履の形をした絵馬がたくさん奉納されていました。右側にはお地蔵様がいらっしゃいます。
庫裏の方に看板があり「ここで本堂の瓦を見上げてごらん 福がほほえんでいるよ」と書かれています。素直なのでその通りにしてみますと、
このように屋根瓦の福がほほえんでいました。
こちらは弘法大師像です。このような姿の大師像は修行大師と呼ばれています。大師像の周りには四国八十八か所、いわゆるお遍路のお砂踏み所となっています。お砂踏み所というのは、四国八十八か所の各札所の砂を持ち帰り、放生寺の場合は弘法大師像の周辺の敷石の下に埋めています。このお砂踏み所を順番に祈念しながら巡ることで、実際のお遍路と同じご利益を得られると言われています。
放生寺はそれほど広い境内ではないのですが、よく整備されていて気持ちよくお参りできます。神も仏も同様に尊いものとして信仰する人々にとって、拠り所として申し分ないように感じました。
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