寺社探訪

寺社探訪とコラム

山+神「多摩丘陵+春日神社」

低くても「山」と名の付く場所を目指していましたが、ついに「丘陵」です。やはり今年5月に術後1カ月で訪れた金尾山(標高229m)での失態が、心身ともに尾を引いています。高尾山くらいは登れる身体でいたいと手術前に語っていましたが、結局はその半分にも満たない山の、更に半分までも到達できなかったのです。貧血で意識を失いそうになり、敗退どころか救助される寸前でした。

あれから2カ月。術後3カ月になりました。主治医からも、この夏は辛いかもしれませんが、食べ物でしっかり栄養を採って、サプリも活用して乗り切ってくださいと言われています。1からの挑戦が無理だったなら、0.1から挑戦したらいい。ということで、京王線聖蹟桜ヶ丘駅にやってまいりました。が、既に暑い。この日の東京は最高気温35℃という予報です。速乾のシャツが早くも汗でツートンカラーに変色し始めました。

駅前から「さくら通り」という道を歩きます。少し歩くと立派な門構えのお寺。こちらは曹洞宗の観蔵院です。観蔵院には瑠璃光会館という葬儀式場があって、かつてはよく仕事で訪れていました。現在は仕事エリアが違ってしまい、ほぼ行くことはありません。ここの鐘楼は私が働き始めた頃ですから、25年以上前から自動で鐘を突くタイプのものでした。誰もいないのにいきなり鐘が鳴るからびっくりした記憶があります。

もう少し先の丘の向こうに寿徳寺という曹洞宗寺院がありますが、観蔵院は寿徳寺の四世が開山したそうです。観蔵院も寿徳寺も元々は真言宗寺院で、歴史の途中で曹洞宗に改宗したとのことです。

この川は大栗川といいます。少し下流多摩川と合流しています。源流は高尾山の手前にある御殿峠だそうで、八王子市と多摩市を流れている一級河川です。河川の一級・二級というのは、その川そのものの大きさを表しているものだと思っていましたが、実はそうではありません。災害目線で判定しているので、氾濫したら甚大な水害となるような河川を一級河川としていて、一級河川の支流は全部一級河川なのです。まぁ、荒川が氾濫したら、神田川石神井川が逆流して都心で大水害が起こるらしいですから。さてさて、橋を渡らずに川岸の遊歩道に降りて、川沿いを歩きます。

きれいに整備されている、こんな水辺の道は歩いていて気持ちが良い……はずですよね。しかし、暑い。暑過ぎます。午前中ですが気温は30℃を超え、googleによると32℃だそうです。去年もですが、この殺人的な暑さってこれからもデフォルトになるのでしょうか? 日本の夏は自宅で過ごすという新習慣が生まれそうですね。

川岸の斜面に大きなキノコを発見しました。これたぶんカラカサダケで、食べられるキノコだと思うのですが、違います? まぁ食べませんけど。

更に歩いて川沿いの遊歩道は終わり。鎌倉街道の手前にやってきました。 ここで大栗川にかかる橋を渡って、対岸へ移動します。

鎌倉街道を渡って、大栗川沿いに進みます。実は数年前までこのエリアで配達の仕事をしていました。前方に見えるのはライオンズマンション聖蹟桜ヶ丘パシーナという大きなマンションです。このような大型マンションは、知らなければ配達は大変です。駐車場所、入館手続き、メールルーム、エレベーターなど、マンション独自の方法がありますので、それを知ることがポイントです。このマンションは一部だけメールルームが別の場所にあるので、知らないと探し回ることになります。

広角で撮っていますが、見事に合流点が撮れました。左が大栗川で右が乞田川です。私の足元で合流して、まっすぐ正面に大栗川として多摩川へ流れていきます。

「北 府中 / 西 八王子」という道標が建っていました。ちなみに「聖跡」というのは、簡単に言えば天皇が訪れた場所です。明治天皇は京都の伏見桃山陵に埋葬され、東京には明治神宮が創建されました。しかし、明治天皇ゆかりの地は他にも多くあり、明治神宮の分霊を勧請したいという要望が殺到します。明治神宮の分霊を勧請することは許されず、代わりに「史跡名勝天然記念物保存法」という法律に基づいて、明治天皇の聖跡を指定し保存していくこととなったのです。ですから「聖跡」の名のつくところは、実質的にはほぼ明治天皇が訪れた場所なのです。明治天皇はこの聖蹟桜ヶ丘付近に、兎狩りや鮎釣りに来ていたそうです。ただ、戦後のGHQの指導により、現在の日本国憲法においては、聖跡の指定が一斉に廃止されています。法には基づいていないが、聖跡を大切にする心は受け継がれたということですね。

この公園は対鷗台公園と称します。幕末~明治に活躍した政治家で、明治天皇の側近でもありました三条実美が、明治6年(1873年)に墨田川河畔に建てた別荘を建てました。それが「対鷗荘」という別荘でした。明治天皇は、征韓論を巡る政争で病に倒れ、対鷗荘で静養していた三条実美を見舞っています。昭和4年(1929年)に対鷗荘は、浅草橋場からこの公園の場所に移設されています。戦後には飲食店として利用されましたが、昭和63年(1988年)に取り壊されました。対鷗荘があった高台にある公園という意味で、対鷗台公園です。

細長い通路を歩きます。周辺は住宅街です。

明治天皇御幸所對鷗荘」と書かれています。実際に明治天皇が訪れたのは台東区にあった対鷗荘で、対鷗荘が当地に移転して来たのは明治天皇崩御した後です。明治天皇が当地に来たのは、兎狩りや鮎釣りのためだそうです。

そうは言っても、明治天皇に関係する建物であることには変わりないので、取り壊すか改修するかは、市議会で話し合われたそうです。明治天皇は国民から絶大な人気があったのですが、知人から聞いた話で信憑性はありませんが、昭和天皇のための神宮を建設する話があるのだそうです。昭和天皇も日本の大激動の時代を生き、明治天皇に通じますね。

公園には小野小町やその他の歌碑が多く建っていました。さて、今更なのですが、私が歩くコースは、公益財団法人、東京都公園協会のHPに記載されているハイキングコーです。既に細かい道を間違えているようですが、コース通り忠実に歩いていきたいと思っています。

今回はこの中のAー3コース「聖蹟桜ヶ丘駅周辺コース」を歩いています。迷うほどの距離ではないのですが、細かい道がわかり辛い地図で、結構行ったり来たりしました。

道迷い中に乞田川に合流しそうな水路がありました。聖蹟桜ヶ丘エリアは多摩川、大栗川、乞田川の他にも結構水路が多いのだと気づきます。あまりイメージになかったですが、多摩市は水の豊かな地域なのですね。

清水渓緑地という公園です。休憩ができる公園ですが、今ここに座って休んだら蚊の餌食になってしまいます。公園を抜けると少し車通りの多い道に出ます。その道沿いに歩いていくと、神社が現れました。

この辺りは連光寺という地名なのですが、連光寺は謎が多く、鎌倉時代には既に存在していない寺院でした。文献には地名として登場するものの、どこに寺院があったかもわからず、推測の域を出ません。連光寺は寺院の名前ではないんじゃないか? という説もあって、町名として残っているのに、寺かどうかもわからないという不思議な場所です。そんな連光寺の旧村社、鎮守なのがこの春日神社だそうです。創建は不詳ですが、治承5年(1177年)に、ここに村が開拓されていたという文献がありますので開拓入植と同時に、住民の拠り所として春日神社が建てられたのではないかとのこと。名前の通り奈良の春日大社から勧請したそうですが、高台にあって当時は景色が良かったでしょうね。

社殿の彫刻が精緻です。奥の方までしっかり刻まれています。常駐の宮司さんはいなくて、聖蹟桜ヶ丘駅の近くにある武蔵国一之宮の小野神社が兼務しています。この辺りは住宅地ですから、お祭も盛り上がるでしょうね。ただ、周りは坂道だらけなのでお神輿はしんどいと思います。

御神木は二本の大きなケヤキの木です。そもそも3本あったのだそうですが、一番大きな木が枯れてしまったそうです。実はこの春日神社は東京都公園協会の「聖蹟桜ヶ丘駅周辺コース」に含まれていないのですが、ちょっとの寄り道なので訪問してみました。

そして、コースに戻ったつもりで歩いていると、道を間違えて行ったり来たりしてしまいました。ようやく見つけた若宮八幡社ですが、見上げると真ん中から上が草ボーボー状態です。これ、行けるのかな?

うっすら道が見えていますが、蛇が出そうで緊張しました。この若宮八幡社春日神社の境外社という位置づけです。奈良の春日大社の摂社にも若宮社があり、古来から奈良の本社と同様に造られていたということです。

周囲を住宅に囲まれていて、誰かの家の庭に入り込んでいる感覚で恐縮ですが、小さな祠がありました。春日大社で祀られている春日神武甕槌神経津主命天児屋根命比売神天児屋根命の妻)の4柱なのですが、若宮というのは天児屋根命比売神の間の御子神という意味で、天押雲命のことです。フリガナを振ると文章が二倍になるのでやめておきます。

こちらは近隣の連光寺小学校とボランティアが運営している田んぼだそうです。田んぼって水が豊かであれば、丘や山の中でもできるものなんですね。こちらの田んぼは、稲刈りシーズンになっても水が抜けないので、泥の中で稲刈りするそうです。

蓮の花が咲いていました。ここを通った日は都知事選の選挙運動真っ盛りだったので、これは蓮舫さんが勝つ兆しなのか? などと思いました。私はこの時点で期日前投票を済ませていました。フリーランスなので突如仕事で予定が変わりますから、いつも投票は期日前に済ませておきます。今回は都議補選が遅れて告示されて、期日前投票に二回行くという変な選挙でした。

ここは林野庁多摩宿舎です。林野庁という省庁が存在していることを改めて知らされます。農林水産省の外局だそうです。

更にてくてく歩いておりますと、都立桜ヶ丘公園に入りました。この広場には宇宙桜(ソラザクラ)・三春の滝桜と呼ばれる枝垂桜があります。ここから多摩丘陵ハイキングの佳境に入ります。

広場の外周を巡る通路を歩いていると、山の中に逸れていく道があります。この道に入っていきます。この公園はしっかり案内板が掲げられているのに、道がわかりにくいという不思議な公園でした。案内板に書かれている場所がどこだかわからないので、この方向だと言われてもピンと来ないのです。

この分岐も難しくて、左が正解です。一応突き当りの足元に「⇒たぬきコース」と書かれていましたが、私は今何コースを歩いてきて、何コースへ向かおうとしているのかがわからないので、意味のない標識になっています。

この分岐も難しかったです。右が正解です。左はちょっと草ボーボー過ぎて侵入する勇気が必要です。公園の中の散歩コース的なものなのですが、何といっても30℃を越える気温です。この段階で既に汗だくで、息が上がっています。

きっと秋から冬にかけて歩くと清々しい雑木林を感じられると思います。夏は暑いし虫が多いですから、止まって休憩したら蚊に刺されまくります。限りなく不快な中をはぁはぁ言いながら登っておりますと、すぐ近くからAdo(UTA)の「新時代」が聞こえてきました。きっと近くに学校があって、何かの行事の練習をしているのでしょう。山登りをしている気分でしたが、人々の生活がすぐ隣にあるという現実に戻されます。山ではなく、都立公園の中にいるのです。

テーブルとベンチが置かれた、少し広い場所に到着しました。早速ベンチに腰掛けて、溺れる勢いで水を飲みます。服のまま風呂に入ったかの如くびしょ濡れで、飲んでもすぐに汗になって吹き出す感覚です。これだけ消耗しては、山はまだ難しいですね。低山にしても、1時間以上登り続けるのは難しそうです。手術は成功して、がんに怯える生活から一旦は抜け出せたのです。体力や体調を整える機能が戻って来ません。術後まだ3ヶ月なのか、もう3ヶ月なのか。これから良い方へ変わってくることに期待します。

さあ、立ち上がって続きを歩きます。立ち上がると立ち眩みがします。貧血は相変わらずなようです。足元に気を付けながら、フラフラしないようにしっかり気を確かにして歩きます。都立公園の中で3000m級の山の中みたいな話をしていますが、これが私の現実の姿です。ちなみに、山でないと言っていますが、一応「大松山」という名前が付いています。

この登りはすぐに終わりました。「ちょうの道」というコースを歩いていたのですね。どこが「ちょう」なのかわかりませんでしたが、私には龍の背でした。

また広場に到着です。登りはここまでで、ここからは大松山の頂上をウロウロします。明治天皇の御製の石碑がありました。この天気というのもあり、ここまで誰にも会っていません。

こちらは「五賢堂」という建物です。昭和43年(1968年)、多摩聖跡記念館を管理運営していた多摩聖跡記念会が、明治維新100年を祝して、維新の志士を顕彰する目的で五賢堂を建立しました。五賢とは、三条実美岩倉具視木戸孝允大久保利通西郷隆盛の5名だそうです。堂の中には5名のブロンズ製の胸像と明治天皇の立像が納められているそうです。

こちらが旧多摩聖跡記念館です。多摩聖跡記念会から多摩市へ寄贈された際に、旧多摩聖跡記念館と改称したそうです。明治天皇の当地への御幸を記念して建てられましたが、それにしては立派ですね。もう少し広く深い意義があった建物だと思います。多摩市に寄贈された時点で歴史的建築物ということで多摩市の文化財に指定されています。中は明治天皇騎馬像があり、幕末~明治に活躍した人の資料や、多摩市の自然の写真などが展示されています。入場無料でしたが、ずぶ濡れだったので遠慮しておきました。

ここからは下りです。下りも分岐があって、迷う場面が多かったです。正解を求めなければ良いのですが、コース通りに歩きたい欲が出てしまいました。途中にもベンチや椅子があったのですが、10分も座っていると干物になるくらい暑かったです。

平地に降りてきましたが、コース通り公園の奥の方まで歩いてみます。

公園を出て一般道に入ります。すぐ隣にありました、学校。この学校は都立多摩桜ヶ丘学園という特別支援学校です。ここから「新時代」が聞こえていたのですね。さて、都立公園を南アルプスに見立てた訓練を経て、ハイキングコースはまだ続きまず。殺人的な暑さの中、生きてゴールにたどり着くため、近くの自販機で水分追加です。ポケットの財布のお札までふにゃふにゃになってしまいました。(後半へ続く)

 

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