平安神宮 目次
名称・旧社格
創建
明治28年(1895年)に、平安遷都1100年を記念して創建されました。
御祭神
みどころ
朱塗りの社殿と緑の瓦屋根が目に鮮やかです。平安京を模した広々とした境内には、ゆったりとした時間が流れています。
アクセス
京都地下鉄東西線「東山」徒歩10分
探訪レポート
平安神宮はそもそも国内博覧会の目玉企画として、平安京の大内裏を再現するために造営された神社です。そのため全国にある他の神社とは一線を画しております、日本一の大きさだった大鳥居ですが、こちらは昭和天皇の即位の礼を記念して建てられました。令和天皇の即位の礼は東京の皇居内でありましたが、昭和天皇の即位の礼は京都で行われています。鳥居は神社の種類によって様々な型式があります。他の神社と異なる平安神宮の鳥居を、どんな型式の鳥居にするか協議されたそうです。鳥居と境内の間には岡崎公園があります。岡崎公園内の参道にはたくさんのテントが立っていて、賑やかな雰囲気でした。
こちらの門は、平安京の朝堂院の応天門を模した造りになっています。朝堂院とは大内裏の正庁、つまり皇居のような意味です。その正門の再建ということです。大きさは平安京当時の5/8スケールだそうです。
平安神宮の手水舎もセンサー式になっていました。
「應天門」の扁額がかかっています。平安時代に天皇の命を受けて平安京大内裏の応天門の扁額を書いたのが、書道の達人として名高かった弘法大師空海です。その時に空海は「應」の心の点をひとつ書き忘れてしまったそうです。このことから、どんな名人でも失敗することがある例えとして、「弘法も筆の誤り」と呼ばれるのだそうです。ちなみに額を設置する際に間違いに気づいた空海は、下から筆を投げて点を一つ付け加えたとされています。漫画みたいですね。
平安京は「四神相応の地」として造られたと言われています。四神は東西南北を司る神獣、北の玄武、東の青龍、南の朱雀、西の白虎のことです。境内に入ると東側に蒼龍がいらっしゃいました。使われていませんが、元々は手水舎だったようです。
対になる場所、つまり西側には白虎です。
こちらは神楽殿です。案内板に(結婚式場)と書かれていました。平安神宮で結婚式を挙げると、この神楽殿で儀礼的なことを行うのでしょうか。境内の隣に平安神宮会館という結婚式場があって、庭園(神苑)に直結しているので披露宴はそちらなのでしょう。
対を成す構造になっているので、神楽殿の反対側にも同じような建物があります。こちらは額殿です。平安京の朝集殿を模して造られたとのこと。朝集殿は平安京大内裏で様々な儀式を行っていた朝堂の南側に位置する、朝堂の儀礼参加者の控えの間的な建物だったそうです。現在は額堂として使用しているのでしょう。
さて、また東側ですので、こちらは蒼龍楼です。かっこいいですね。
反対側のこちらは白虎楼ということになります。白虎楼側から奥の神苑に入ることができます。
この段差に意味があるのかというと、たぶんあるのでしょう。龍尾壇と呼ぶそうです。
拝殿に向かって右側にあるのが「左近の桜」です。平安京において公式行事や儀式を執り行う紫宸殿(ししいでん)の庭に古来より桜と橘が植えられていたとのこと。
こちらが右近の橘です。左右は紫宸殿の中央に座る天皇から見ての左右です。
拝殿は平安神宮130年祭のために改修中でした。本来ならは左右の楼閣と一体となった建築美が見られたはずです。外拝殿は大極殿と呼ばれています。こちらも應天門と同じく、大内裏の正庁である朝堂院の5/8スケールの再現です。お祀りされているのは桓武天皇と孝明天皇です。この2人の天皇の間、京都は日本の都であり続けたのですから、首都としては東京は歴史的に足元にも及びません。
私は関西育ちで東京在住ですので、平安神宮と明治神宮が類似して見えてしまいます。どちらも100年少々の歴史ですが、両都市を代表するような神社で、三賀日には人々が殺到します。明治時代に行われたのは遷都ではなく奠都でした。東京はあくまで東の都だったのですが、政府が東京へ移り、近代化と社会の変化の中で、日本の首都は東京になりました。そんな激動の時代に創建されて、お互いに住民の拠り所として発展した平安神宮と明治神宮、象徴的で信仰のダイナミズムを感じますね。
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