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将門の魔方陣巡礼2

将門の魔方陣巡礼2 目次

兜神社

所在地:東京都中央区日本橋兜町1-12

創建:明治11年1878年

御祭神:倉稲魂命(うかのみたまのみこと)

将門との関連:藤原秀郷が討ち取った将門の首を京へ運ぶ際、この地に将門の兜を埋めて塚を造って供養したと言われている。

最初の鳥越神社に比べると、兜神社という名称はまさに武士の兜という点で、将門直結という感じもしますが、実はこの近くに鎧橋という橋があり、鎧なんだか兜なんだかわからなくなります。この地域に古くからあった、兜神社に関連する3つの代表的なものは、兜塚、鎧稲荷、鎧の渡しです。どれも諸説多く、何が本当かわかりません。藤原秀郷が将門の首を京へ運ぶ際にこの地に立ち寄り、兜を埋めて兜塚を築いて供養したという説。将門自身が鎧と兜を納めたという説。他には鳥越神社の由緒にも出来てきた源義家が兜を置いて海が静まるのを祈願したという説、鎧を海中に投じて祈願したという説などがあります。そんな諸説でこのあたりに鎧の渡し、鎧稲荷、兜塚があったのです。神社の由緒書には将門との関係は何も記載されていません。

こちらは境内にある兜岩です。これが、兜塚の今の姿だと言われています。鳥越神社も兜神社も、由緒書などには将門との関係が何も記されていませんが、だからと言って将門と関係がないとは言い切れない理由があります。神仏習合で仏教と混同されていた神道や神社を、神仏分離して整えていったのが明治政府による明治維新です。明治政府の時代は、日本は天皇を中心とした神の国で、朝敵として天皇に対してクーデターを起こした将門は神社に祀られるべき存在ではない、というか神社の歴史から抹消されて然るべき存在なのでした。なので、将門を祀ったり、将門と縁があったりしていたとしても、明治維新によって、歴史から将門に関する部分を消されてしまったということがあるのです。

 

将門VS伯父(平国香編)

承平5年(936年)2月、常陸国真壁郡にて、将門は伯父の国香や良兼の妻の父である常陸国の豪族、源護の子、源扶、源隆、源繁に襲撃されます。しかし、将門が返り討ちにして源扶らは討ち死にします。そのまま将門は勢いに乗じて源護の本拠地へ進軍して焼き討ちを行い、伯父の平国香が焼死します。当時の将門は、領地が馬産地だったので騎馬戦略に非常に長けていて、豊富な馬を使った強さを誇っていました。一族の長であった平良兼は兄の国香が戦死しても不介入を決めこみますが、3人の息子を殺された源護は収まらず、良兼と国香の腹違いの弟、平良正に加勢を求めて、承平5年10月、将門に襲いかかります。ここでも将門は良正を返り討ちにし、良正は敗走します。

 

国衙を包囲

平国香死去の際には静観していた一族の長、平良兼が弟良正の訴えを受けて立ち上がります。殺された国香の息子の貞盛は京都で役人として生きる道を選んでいて、関東の親族間の争いに介入する気はありませんでしたが、平良兼が父の仇討ちをせよと貞盛も軍勢に引き込みます。こうして承平6年6月、良兼・良正・貞盛が下野国で将門に襲いかかります。ここでも強力な将門軍に敗れた良兼軍は、下野国国衙(県庁のような役所)に逃げ込みます。将門は国衙を包囲しますが、国衙を襲撃しては朝廷への反逆になってしまいます。将門は一部の包囲を解いて良兼たちを逃走させて、国衙に話をつけて帰国しました。承平6年9月に源護が朝廷に将門の暴挙として訴え、将門と将門側についている地元の豪族平真樹が朝廷に招集されます。おそらく、朝廷的には国衙を包囲したのはマズかったが、基本的には一族内の覇権争い(私闘)で、深く関与する気がなかったと思われます。翌承平7年4月に恩赦が出されて将門は関東へ帰ります。

 

将門VS伯父(平良兼編)

承平7年8月、平良兼が将門の常羽御厨(将門が管理する馬の牧場)を焼き討ちにします。これで将門は敗走します。良兼は領地内を荒らし周り、翌月の9月にまた将門を襲撃しますが、逆に将門が良兼を撃退します。そして今度は将門が朝廷に訴えます。朝廷としては、「何なのこの人達? 仲良くやってよ」と言いたい気持ちだったでしょう。将門が訴えたのは、自分の元主君である藤原忠平、つまり時の太政大臣で摂政関白として日本の最高権力者となっている人です。承平7年12月に太政官符が発令され、朝廷の馬寮にあたる常羽御厨を攻撃したことにより、良兼・貞盛に対する追討の官府を将門が受けることになります。そこで良兼が先制攻撃で将門に夜襲を仕掛けますが、これも将門に撃退されてしまい、良兼は筑波山に逃げ込み、ここからは将門を倒すことを諦め、天慶2年(939年)に病死します。

 

将門VSいとこ(平貞盛編)

将門VS平国香・良兼・良正・貞盛・源護・扶・隆・繁という構図で戦ってきたものの、伯父陣営で残っているのは貞盛だけとなってしまいました。貞盛はそもそも京都で朝廷の役人として優雅に暮らしたいという希望でしたが、将門が父の国香を討ってしまい、良兼が仇討ちさせようと強引に陣営に引き込んだので、今となっては将門を討つことより、将門から離れて安全を確保したいところ。承平8年2月、貞盛は京都へ戻ろうとしますが、貞盛を京都へ行かせて、将門のことを朝廷に告訴されては将門が困ります。将門は京へ帰ろうとする貞盛を追いかけて襲いかかります。ここで貞盛は合戦から逃亡して、京へなんとかたどり着き、早速朝廷に訴えます。朝廷からは将門に対する召喚状が出され、承平8年6月に貞盛が常陸介の藤原惟幾に召喚状を渡し、惟幾が将門に召喚状を送るが、将門は応じなかった。将門にしてみれば、残るは貞盛のみなので、貞盛を討って支配を安定化させたいところです。貞盛は陸奥国に逃れようとするが、将門に追い回されて流浪することとなります。

 

ここまではまだ、ギリギリ桓武平氏一族内の覇権争いと見ることが出来ます。貞盛が生きているとは言え、既に将門が坂東の覇権を握った状況です。ここからどうなっていくのか、次回に続きます。

 

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