寺社探訪

寺社探訪とコラム

熊川神社

熊川神社 目次

名称・旧社格

熊川神社と称します。旧社格は村社です。明治維新までは礼拝(らいはい)神社と称していました。

創建

平安時代初期、多摩川で産鉄をしていた部族が、鉄神として宇賀神(白蛇神)を祀ったのが起源とされる。

御祭神

大国主命(おおくにぬしのみこと)

市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)

みどころ

本殿は都内現存の神社本殿として2番目に古い建物で、東京都の文化財に指定されています。歴史の長さだけが表現できる空気を感じてください。

アクセス

東京都福生市熊川660

JR五日市線「熊川」徒歩8分

JR青梅線拝島「拝島」徒歩12分

 

探訪レポート

鳥居をくぐる手前に「杜の美術館」というものがあります。デザイン的に神社と同じに見えますが、実際に同じです。熊川神社の禰宜を務められている野口さんが築180年の野口家の母屋を改造した美術館で、野口さんの収集品1500点を収蔵しているそうです。ただ、土日祝しか開館していませんので、訪れる方はよく調べてから行くと良いです。

鳥居をくぐると参道が一本道で本堂へ続いています。参道の両側に境内社が見えます。熊川神社の創建には諸説ありますが、水に関する信仰から始まり、宇賀神または弁財天を祀っていて、神仏習合の時代があり、生石命(おふいしのみこと)を御神体とし、大国主の荒魂として御祭神にした。ということだそうです。

手水舎です。鉄の蓋が閉まっていて、使用する時だけ自分で開けるタイプでした。熊川神社は江戸時代以前は礼拝(らいはい)神社と称していて、礼拝大明神をお祀りしていました。この礼拝大明神=宇賀神とのこと。宇賀神は人の上半身に蛇の下半身という姿で、当ブログで井の頭弁財天を訪問した際に解説しました。宇賀神=弁財天は水の神として習合しています。

こちらは大黒天です。大黒天は大国主命と習合しています。本殿の御祭神が大国主命=大黒天なので、本殿のご祭神でもあるのですが、この大黒様は七福神を揃えるために、ここに鎮座しているのかなと思います。熊川神社の境内には七福神が揃っていて、福生七福神と称しています。

左のお狐様だらけのお社は、稲荷神社です。五穀豊穣、商売繁盛という庶民の味方です。右側の板碑が山の神さまと紹介されています。役行者修験道の祖)が感得した蔵王権現(御岳権現)だそうです。

こちらはメゾネットタイプのお社で、天神さま・牛頭天王さまと紹介されています。天神さまは学問の神様の菅原道真を祀る神社です。牛頭天王神仏習合の天王です。中国で仏教と道教が習合し、朝鮮半島を経由して日本で陰陽道神道と習合した神で、釈迦の生誕地である祇園精舎の守護神とされています。この説明板では韓国の神様で、疫病除け、無病息災の神様とされています。

東京都神社庁の資料によると、主祭神大国主命市杵島姫命ですが、拝殿前の説明版によると、平安時代鎮座の「礼拝大明神(宇賀神)」、室町時代鎮座の弁財天・大黒天・薬師如来」、平成時代鎮座の「不動明王」となっており、「当社は古来より神仏習合の神社です」と書かれていました。熊川神社は神仏習合の歴史を今も引き継いでいる感じですが、さすがに神社庁がそれを認めることはないということでしょうね。福生市文化財に指定されている「熊川神社祭神生石命画像」という絵があるのですが、人の上半身にとぐろを巻いた蛇の下半身という、宇賀神の姿そのままです。宇賀神の霊石=生石命=大国主命の荒魂=大黒天という図式で祀られています。また、宇賀神=弁財天=市杵島姫命という図式で祀られています。他にも薬師如来不動明王が祀られているということで、神仏習合の神社だと言えますね。

拝殿も立派です。このような屋根の造りは、元々藁葺きであった屋根の形をなるべくそのままに銅葺きで再現しているのでしょう。それにしても、味のある拝殿ですね。拝殿の裏側には本殿があり、現在の本殿は慶長2年(1597年)に造営されたもので、東京都内では東大和市の豊鹿島神社の本殿に次ぐ古さです。東京都の文化財に指定されていて、金網で覆われています。

本殿の左に琴平神社があります。説明書きによると十二神将のひとつ「クビラ神将」のことだと書かれています。琴平=クビラというのは、大国主命=大黒天と同じく、発音が似ているだけの強引な本地垂迹のようで、神仏習合って感じがしますね。十二神将薬師如来を守護する尊仏です。明治13年に讃岐の金刀比羅宮から勧請されました。海運や漁業の神様のイメージですが、西多摩地域では殖産興業、特に養蚕の神様として信仰を集めていました。当ブログの「山+神」企画で三室山に登った際、山中に琴平神社がありましたが、そちらも養蚕の神様として祀られていました。当時熊川にあった製糸工場の女工たちの憩いの場として、毎月10日の縁日は大変賑わったそうです。

手前が神楽殿です。奥の建物が社務所です。

神社の外側の溝に何やら説明版がありました。玉川上水から引かれた熊川分水が現在も姿を残しているということが書かれていました。玉川上水は、江戸市中の上水道とするために羽村から四谷まで水路を通して築かれました。他に、江戸までの多くの地域にとって水源として活用されてきました。玉川上水から分水することができたから村が発展し、現在も活用されているという場所はたくさんあります。この熊川も地域の生活用水だけでなく、前述の製糸工場や酒造業(清酒多満自慢」の石川酒造があります)に活用されてきました。実際に見てみると、透明できれいな水が流れていました。

 

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