寺社探訪

寺社探訪とコラム

天台宗 目黒不動尊

天台宗 目黒不動尊 目次

名称・寺格

泰叡山 龍泉寺(たいえいざん りゅうせんじ)と称します。通称、目黒不動尊として有名です。寺格は特にありません。

創建

大同3年(808年)、のちの天台座主となる円仁が、比叡山最澄の元へ向かう途中、この地で夢に現れた神人の姿を彫刻したものが目黒不動尊像となり、この地に堂宇が建立されたと伝えられています。

本尊

不動明王

ご利益

不動尊信仰ですので、厄除けが有名です。護摩祈祷を受けることもできます。

みどころ

広い境内にたくさんの堂宇があり、神仏習合山岳信仰の姿を見ることできます。

アクセス

東京都目黒区下目黒3-20-26

東急目黒線「不動前」徒歩10分

探訪レポート

瀧泉寺と聞いてもピンと来ませんが、目黒不動尊なら多くの方がご存知ではないでしょうか。目黒駅から目黒不動尊へ向かう道を行人坂と称するように、目黒不動尊は行者が訪れる場所で、神仏習合山岳信仰の寺院だったようです。入口からお寺なのか神社なのかわかりにくい感じです。狛犬の後ろに仁王門があります。三大〇〇という話をしますと、関東三大不動尊には含まれておらず、日本三大不動尊に含まれているようです。しかし、日本三大不動尊の候補は数多くありますので、その中のひとつという感じです。不動尊といえば成田不動尊が有名です。成田山から全国各地に不動尊を勧請しているのですが、目黒不動尊成田山とは宗派も違い、関係ありません。

仁王門を入る前に、道路を左に進みまして、恵比寿尊のエリアを訪問しました。とにかく遊園地のように堂宇が並んでいるので、どこから訪れるかは好みの問題です。江戸時代には徳川家光の庇護を受けて、53棟もの伽藍が建てられ、「目黒御殿」と称されるほどに隆盛を極めていたそうです。

ここは恵比寿尊のエリアで、山手七福神巡りのひとつなのですが、池に囲まれたエリアになっていることから、私の中で弁財天と誤解していました。池の中には一寸帽子風の仏様がいらっしゃいます。一寸法師少彦名命=恵比寿天という図式が成り立ちますね。

お社が3つ横並びに並んでいます。こちらは豊川稲荷です。豊川稲荷曹洞宗の寺院なのですが、なぜここにお祀りされているのでしょう。商売繁盛のご利益があります。

こちらは恵比寿尊だけでなく、恵比寿尊、弁財天、大黒天を中心に、七福神全てを祀っているお社だそうです。御朱印もいただけるそうで、七福神巡りをする方も多いのでしょうね。これは個人的な推測ですが、周囲の池や造りを見ても、おそらくここは弁財天をお祀りした弁天堂だったのだと思います。何らかの事情(たぶん、山手七福神編入するため)で、恵比寿尊をお祭りする必要があったのだと思われます。

こちらはよくわからないのですが、見るからに稲荷社です。鳥居はありますが朱塗りではなくて、3つの社の中では一番簡素です。

さて、恵比寿天のエリアから正面に戻って仁王門をくぐります。昭和37年に鉄筋コンクリート造りで再建されました。正面には阿行、吽形の仁王像が安置されています。裏側は何故か狛犬です。

手水舎は使用不可になっていました。

仁王門を通って中央の通路を真っ直ぐ進むと階段があり、階段を登ると本堂になります。境内は階段上と階段下の二層に分かれています。まずは階段下の層、中央通路の右側のエリアから向かいます。地蔵堂には地蔵菩薩が祀られています。説明では「無仏時代の救世仏」と書かれていますが、無仏時代とは、釈迦が入滅して、この世には仏がいない状態です。釈迦の次にこの世を守る仏様は弥勒菩薩に決まっているのですが、弥勒菩薩はまだ仏になっていないのです。菩薩というのは成仏手前の存在で、成仏すると如来という存在になります。弥勒菩薩弥勒如来となってこの世を救いに現れるまでの間は、無仏時代になってしまうので、釈迦からその間この世を託されたのが地蔵菩薩だという意味です。

精霊堂というお堂です。こちらも中央にお地蔵様が何体か祀られています。この世を託された地蔵菩薩は6つに分かれた世界(六道の世界)すべてに現れて衆生を救う六道能化(ろくどうのうげ)地蔵という意味で、6体セットで祀られることが多くあります。また、親より先に亡くなった子は、親を悲しませたこと、生前に十分な功徳を詰めなかったことで、三途の川を渡ることができないとされています。賽の河原で石を積んで石塔を築き功徳を積もうとするのですが、鬼に壊され苛められてしまいます。そこへ地蔵菩薩が現れ、鬼から子どもたちを守って、経文を聞かせて功徳を積ませて成仏させるのです。そんなお地蔵様の左右に祀られているのは奪衣婆と閻魔大王で、両者とも冥界にいらっしゃいます。奪衣婆は川崎大師の回に登場しましたが、死出の旅で最初に出会う冥界の官吏で、衣服を剥ぎ取られ枝に掛けてしならせ、その具合で罪の重さを測るのだそうです。そんな風に様々に生前の行いを審議され、審判を下す役目を持つのが閻魔大王です。この精霊堂はこの世からあの世へ向かう間の世界を表していますね。

更に右の方へ進むと、塀に囲まれた区域に入ります。この中は寺務所や書院がありますので、お勤めの僧侶たちが業務を行っている本坊という場所ですね。門を入って突き当りには阿弥陀堂があります。天台宗では阿弥陀如来を本尊とする寺院も多くあり、浄土系の宗派はほぼ阿弥陀如来が本尊で、浄土真宗では阿弥陀如来のみを拝します。西方浄土である極楽浄土の主とされています。日本では西方浄土がよく知られている(それしか知られていない)のですが、東方浄土というのもありまして、瑠璃光浄土などと呼ばれ、薬師如来が主となっています。どちらも仏の住まう仏国土で、浄土系の仏教では阿弥陀如来が極楽浄土へ導いてくれるという教えが広まっています。

阿弥陀堂を正面に見ると、右に本坊寺務所、左に観音堂があります。観音堂には聖観音菩薩・千手観音菩薩・十一面観音菩薩がお祀りされています。江戸三十三箇所観音霊場という札所巡りがあるのですが、この目黒不動尊の観音様は三十三箇所目、つまり結願所となっています。

それでは、中央の通路から左側のエリアに向かいます。まず池というか泉というかがありまして、ここは目黒不動尊の開山のお話に関わってきます。目黒不動尊の創建は、第三代天台座主の慈覚大師円仁と言われておりますが、創建したのは天台座主になる以前の、慈覚大師と呼ばれる以前の、比叡山最澄の元へ向かう途中の15歳の円仁なのです。一文で説明してみると、夢に出てきた不動明王の姿を彫った像を安置すべく、堂宇の建立を決意した円仁が独鈷(どっこ:法具のひとつ)を投げたら、そこに泉が出現し、それ以来枯れること無く水をたたえているというのがこの泉で、この泉に水を注いでいるのが「独鈷の滝」と呼ばれています。

柄杓と水盤、そして不動明王がいます。独鈷の滝は行者たちの水垢離場(みずごりば)となっていました。水垢離というのは、滝行に代表される、神仏に祈願する時に冷水を浴びる行のことです。だから目黒不動尊の本尊にお参りをする私たちも、この独鈷の滝で水垢離をしてから向かわなければなりません。しかし、この「水かけ不動明王」が私たちの代わりに水垢離をしてくださるので、水盤の水を柄杓ですくい、不動明王めがけてぶちまけましょう。

青瀧大権現です。川崎大師にも清瀧権現堂がありました。おそらく青龍権現と清龍権現は同じだと思われます。時代の流れで「さんずい」が付いたり付かなかったりするだけだと思われます。清瀧権現密教の守護神とされる女神です。仏教の入門書に書かれているような話をすると、悟りを開き成仏すると如来と呼ばれます。前述の阿弥陀如来薬師如来などです。釈迦も悟りを開いて成仏したから釈迦如来です。では、観音菩薩地蔵菩薩などの、菩薩って仏様じゃないの? と聞かれると、広い意味では仏様と呼ぶが、正確には成仏していなくて、成仏を目指して修行している存在です。それじゃ不動明王愛染明王などの明王は? 大黒天や恵比寿天は? 明王や天というのは、仏教以前にインドに存在した宗教やインド神話の影響を受けたもので、仏教の守護神の役割や、衆生を導く役割を持っています。天の中に、天龍という龍族がいます。その中に八大龍王という仏教や密教を守護する一族の八王がいて、その3番目の王が娑伽羅(サーガラ・しゃがら)という大海の龍王なのですが、娑伽羅の3番目の娘が善女龍王として仏教の経典に登場します。この善女龍王空海が清龍権現と名付けました。空海の師匠である恵果阿闍梨がいた寺院は青龍寺というそうで、密教と濃い繋がりのある権現様なのです。

こちらは前不動堂です。江戸時代には全国の大名が江戸にも住まいを持って、行ったり来たりしなくてはなりませんでした。この目黒不動尊にもお参りに訪れる大名や将軍家の方々がいらっしゃいましたが、そうなると、一般の参拝者は本堂へ近づくことを許されず、参拝できなくなってしまったそうです。そんなときのために前不動堂を建立し、お参りできるようにしたという訳です。こちらは江戸中期の仏堂建築様式をよく伝えているということで東京都の指定文化財になっています。附(つけたり)指定の扁額があるのですが、こちらは江戸中期の書家佐々木玄龍の書だそうです。

この場所の他にも、目黒不動尊の境内にはこのような狛犬が設置されているのです。獅子というよりはワンちゃんです。そして、なんだか、すごく寂しそうな辛そうな感じを受けます。

こちらは甘藷先生こと青木昆陽の石碑です。この方は江戸幕府御家人でしたが、甘藷(さつまいも)が飢饉から人々を救う救荒作物となることを徳川8代吉宗に上書し、これを幕府が認めたため、幕府御用地にさつまいも畑が大々的に作られるようになり、民を飢饉から救う大きな役割を果たしたとのこと。青木昆陽は甘藷先生と呼ばれ、この目黒不動尊にお墓があります。幕府のさつまいも畑となった幕張には昆陽神社が建てられ、芋神様として祀られているそうです。

勢至堂です。大きなお寺には様々な堂宇がありますが、勢至堂とは珍しいですね。勢至菩薩は知恵の菩薩様で、知恵を持って人々を苦しみから救い、正しい行いに導くとされています。よくあるパターンは阿弥陀三尊の右脇侍として登場します。先程ご紹介した目黒不動尊阿弥陀堂にも、阿弥陀三尊の脇侍として勢至菩薩がお祀りされています。ここでは勢至堂が建立されています。3人組ユニットの右の人がソロデビューした感じです。

本居長世という方を知らなくても、この方が創った曲は聞いたことのある方が多いのではないでしょうか。「赤い靴」や「七つの子」などを作曲した方です。古すぎて若い方は知らないかもですね。この付近に住んでいたということで歌碑が建てられています。

腰立不動尊というお堂です。説明では山不動、立身出世の不動尊と書かれています。

さて、いよいよ中央の通路の階段を上がります。上のエリアに行くにはこの階段を登る男坂と、少し緩やかな坂になっている女坂の2ルートがあります。上りは男坂でいきましょう。階段上に興味深いものが見えますね。寺院なのに鳥居、しかも山王型の鳥居です。さすが天台宗といった感じです。

比叡山の守護神である日吉大社は、延暦寺や八坂神社や京都や滋賀の町含めて、比叡山山王信仰として1つのものでした。以前、多摩川百所巡礼で訪れた拝島にも、日吉神社と大日堂が隣に建っているのをご紹介しました。この目黒不動尊も、本堂の正面に日枝神社独特の山王型の鳥居があり、神仏習合の時代の天台宗の姿が見られます。

階段を上がってすぐ右側に、お百度石がありました。階段下にないところが親切な寺院だなと思いました。

鳥居の右側には絵馬がかけられたエリアと、宝篋印塔が建っています。宝篋印塔とは供養塔なのですが、第一区筒先と書かれていますので、江戸火消し第一区の方々が奉納したものですね。筒先というのは消防のホースの先につける部品のことです。

鳥居の左側には手水舎があります。2個目の手水舎で、ここからは更に寺内の神聖な領域に入っていくということでしょう。

階段を上がって本堂にお参りをします。本尊はもちろん不動明王です。慈覚大師円仁が自ら彫ったという本尊ですが、普段は秘仏なので見ることはできません。12年に1度、酉年に御開帳(御開扉)されます。本堂の中は空気感が違っているように感じました。引き締まっていると言うか、ここでご祈祷を受けたら効きそうな気がします。

本堂でお参りをすると、そのまま回廊を通って本堂の裏に行きます。本堂の裏は木々が茂っていて森のようになっています。この森は四方に四天王像が置かれて、結界のように守られています。

その結界の中心に大日如来像が鎮座しています。こちらは銅製の仏像で天和3年(1683年)の作だそうです。大日如来真言密教というイメージがありますが、天台宗台密と言い、密教を取り入れています。大日如来には真言宗金剛界大日如来と、天台宗胎蔵界大日如来があって、こちらは胎蔵界大日如来です。

更に奥へ。境内の最深部には地主神を祀る神社があります。仁王門から、本堂、大日如来、地主神が境内の中央一直線に置かれています。

階段上のエリアはまだまだ広くて、お参りポイントが続きます。こちらは愛染明王です。良縁成就のご利益が有名で、両側に絵馬をかける場所があります。縁結びのパワースポットとして人気があるようで、お参りの方々が結構いらっしゃいました。

微笑み観音という名称は初めて聞きましたが、観音様は観世音菩薩という菩薩様で、様々な姿に変化するとされています。男性になったり女性になったりもします。有名なのは千手観音、十一面観音、馬頭観音など。見た目や性格やご利益によって〇〇観音と名付けられるようです。地蔵菩薩も〇〇地蔵とよく名付けられています。先ほど独孤の滝にいらっしゃった「水かけ不動明王」もそうですね。こちらは微笑み観音と名付けられています。

本堂の右側のエリアに進みます。こちらは二宮尊徳銅像と、奥に延命地蔵菩薩がいらっしゃいます。二宮尊徳銅像の台座には、慈覚勇昆陽仁尊徳智と書かれています。これは、慈覚大師の勇、青木昆陽の仁、二宮尊徳の智という意味だそうです。

境内をよくよく見ていると、色々な動物の銅像かあります。こちらは牛です。

護衛不動尊と称し、開山1200年記念に建立されたそうです。この奥に八大童子の山があるのですが、工事中で立入禁止になっていました。八大童子というのは不動明王の眷属で、いわゆる不動三尊というのは不動明王制多迦童子矜羯羅童子となっています。山+神企画で訪れた大山の大山寺の入口に三十六童子が鎮座していました。

鐘楼堂です。こちらは江戸中期の代表的な鐘楼堂だったのですが、昭和26年(1951年)に消失してしまいました。現在の鐘楼堂はその後再建されたものです。

さて、女坂を通って下のエリアに下ります。途中に力石が奉納されてました。いろんな寺社に奉納されていますが、相撲が神社のイベントだったように、力自慢大会が行われていたというのは、想像に難くないです。人並み外れた力のある人を、神仏の力と重ね合わせて讃えたのでしょう。

こちらは倶利伽羅剣だと思われます。不動明王が右手に持っている、炎をまとい龍が絡みついた剣です。絡みついた龍を倶利伽羅龍王と呼び、不動明王の化身とされていますが、龍はいませんね。

ついに出ました。山岳信仰の祖、役行者役小角)です。仏教では神変大菩薩と呼ばれています。奈良の修験道の本拠地金峯山寺を中心に全国の多くの山々で祀られています。東京の高尾山薬王院でも、山門を入ってすぐ左に神変堂があります。目黒不動尊役行者像は超リアルで生々しさを感じます。なかなかその姿を拝めるところはないので、一見の価値アリです。

さて、堂宇が多くて長い探訪記になってしまいましたが、その分たくさんのご利益をいただけていると思います。あとは、無事にカエルのみですね。

 

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