寺社探訪

寺社探訪とコラム

「江戸六地蔵+街道 序章」

江戸六地蔵を巡る前に、江戸時代の街道について少し知識を深めておくと、より良い巡礼になると思います。いくつかのキーワードをあげて、当時の様子を想像してみましょう。 

日本橋

関ヶ原の合戦が終わり、天下を取った徳川家康はすぐに街道の整備を始めます。当時の道路は人や物が移動するだけでなく、情報も道路を通って伝わり、他国への侵略も道路を伝って行われます。古代から近世までの中央集権国家にとって、道路の支配と整備は国を維持発展させるための重要事項でした。二代将軍秀忠の頃には、日本橋を基点にした主要街道として五街道が整備され、幕府が直轄していました。

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日本橋武家屋敷が並ぶエリアではなく、町民の町でした。各地から物や人が集まりますので、大型の商店が立ち並ぶ賑やかな街になりました。三井越後屋呉服店三越)や白木屋(東急百貨店)など、商業・経済・金融・物流・娯楽の中心地として発展します。町を人と物が行き交うことで文化も生まれます。文学、演芸、絵画など新しい文化の担い手が日本橋界隈に暮らしました。歌舞伎や人形浄瑠璃などの芝居小屋を始め、さまざまな演芸を人々が享受していました。江戸中後期には京を凌ぐ日本一の繁華街になっていたと思われます。

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歌川広重の「東海道五十三次」でも、葛飾北斎の「富嶽三十六景」でも、日本橋は沢山の人と船が描かれています。これから巡る江戸六地蔵も、江戸と各地方を行き来する人や物の安全を願って造られたものです。江戸時代の人々は今のように気軽に国内旅行はできなかったと思いますが、それでも吉川英治の「宮本武蔵」を読むと、結構アグレッシブに江戸と京都を行き来しています。当ブログで扱っている寺社探訪も、江戸の庶民が長距離を旅する目的のひとつだったようです。伊勢や熊野、大山などが有名ですね。

江戸幕府五街道などの道路だけでなく、水路も整備していきます。現在の中央区あたりは江戸時代は海だった場所が多いのですが、日本橋から江戸橋の間に鮮魚や塩干魚を荷揚げする魚河岸がありました。簡単に言うと、築地市場(現在は豊洲市場)には全国から美味しいものが集まると言われますが、江戸時代はそれが日本橋の魚河岸でした。大正12年(1923年)の関東大震災の後、築地に移転したという訳です。

五街道脇往還

江戸幕府が整備管理した主な道路に五街道があります。道ですからもっと昔から利用されていたのですが、道幅や宿場などの定めを作って、基準に見合うように道中奉行を設けて維持管理していました。

東海道日本橋ー京都

中山道日本橋草津・京都

奥州街道日本橋ー白河・函館

日光街道日本橋ー日光

甲州街道日本橋ー下諏訪

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五街道に準ずる脇往還という道路があります。各藩の大名が管理していましたが、万治2年(1659年)より道中奉行が管理していました。主な脇往還は下記の通り。

伊勢路伊勢神宮熊野三山

水戸街道:千住ー水戸

中原街道:江戸ー平塚

川越街道:日本橋・板橋ー川越

などなど多数あります。今回訪れる江戸六地蔵が置かれた街道のひとつ、旧千葉街道は江戸時代には佐倉街道とか元佐倉道と呼ばれた道のようですが、脇往還に当たる道かどうかは調査力不足でよくわかりませんでした。

参勤交代・大名行列

参勤交代は各大名が任地と江戸の両方に順番に住むという制度で、徳川3代家光の頃に法律で義務化されました。鎌倉時代〜戦国時代にも、各地の御家人に定期的に主君の居城に参内させる制度はあったそうです。謀反を起こさせず忠誠心を確認するためにしていたそうです。江戸の参勤交代は忠誠心の他に、各藩の財政を押さえつけ、軍事力を持たせない。つまり参勤交代にお金を使わせて、謀反を起こす経済的余力を無くしてしまうという目的もあったそうです。多い藩では、収入の75%を参勤交代に使っていたそうです。

各藩の石高や江戸からの距離などによって、行列規模や所要日数や費用が違ってきますが、参勤交代は大名だけ移動すれば良いものではなく、大人数の行列を組んでいたそうです。例えば加賀百万石の前田家ですと、2000から4000人規模の行列で行き来していたそうなのです。武士ですから見栄もありますし、戦が無い時代、他の大名との違いを立派な大名行列で示していたのかなと思います。

宿場

宿場とは現代の電車の駅と近い感覚だと思います。駅には改札があり、周辺にはホテルなどの宿泊施設が建ち、商店が集まり人と物が集まる繁華街となります。どこに駅を置くのかは鉄道会社と政府が判断しますが、江戸時代、どこに宿場を置くかは幕府が管理していました。もっと昔の律令制の時代であっても、駅と呼ばれる地点を官道に設置して、馬の管理などをしていました。

宿場となるためには本陣・脇本陣と言われる公人用の宿泊施設以外にも、旅籠などの民間用の宿や、物資や情報を伝達するための馬や飛脚、情報を広く伝えるための高札、飯盛女と呼ばれた女郎がいる歓楽施設などが幕府の管理の元設置されました。旅人向けの商店や茶屋も集まり、ひとつの繁華街を形成します。そんな宿場が街道の各地に点在し、参勤交代や民間人の旅行に利用されてきました。歌川広重の浮世絵で有名な「東海道五十三次」は、東海道にある53ヵ所の宿場のことです。

本陣・脇本陣・旅籠

宿場に置かれた宿泊施設には、大名が宿泊する本陣、本陣に準ずる脇本陣、一般旅行者向けの旅籠、一般旅行者向けの素泊まりの木賃宿がありました。本陣は宿場町の有力者の邸宅が指定される場合が多く、幕府から指定された本陣には、大名や旗本、幕府役人や勅使などの身分でないと宿泊することができず、原則として貸切利用となるので、予約が重ならないために貸す方も利用する方も苦心したそうです。

天候などで予定が狂って鉢合わせになってしまったら、やはり徳川御三家が最優先で、藩の格式の高い方が本陣を利用し、低い方は脇本陣を利用することがあったそうです。脇本陣は大名や旗本の利用がない場合は、一般人にも貸し出されていたそうです。一般用の旅籠の更に格下の木賃宿、職人が利用する職人宿や商人が利用する商人宿もあります。今で言うところのドミトリーやビジネスホテルですね。出費を抑えたい人はそういうところに宿泊したのでしょう。ちなみに東海道全体での本陣・脇本陣・旅籠などの宿泊施設は、3000件ほどあったとされています。53か所で3000件というのは結構な数ですね。

関所・問屋場・貫目改所

関所は宿場に必ずあったものではありません。交通の要所に設置されて、徴税や検問を行う施設です。宿場や峠や河岸など、人々が止まる場所に設けられることが多かったようです。関所には軍事防衛、治安維持、徴税による財政効果という目的がありました。中でも、江戸に武器などが入らないようにすることと、人質の意味もある大名の奥方が勝手に江戸から出ないように取り締まっていて、「入鉄砲出女」と言われていました。

問屋というのは、現在の卸売業という意味ではなくて、宿場町が持つ機能を管理する町役人のことです。どちらかというと運輸業のような性格が強くて、宿場における馬の管理を行って、商品を運ぶ人足や運搬手段を手配していました。そして、貫目改所というのは、問屋場に併設されている施設で、宿場で管理されている馬や人足に規定以上の重い荷物を持たせないようにするために、重さを測って管理していました。全ての宿場にあるものではなく、限られた宿場だけにありました。

高札場

高札は、町の掲示板のようなものですが、幕府からの通達の中でも、法令に関することが掲げられていました。いわゆる取り締まりのためのものが多かったようです。高札場も必ず宿場に置かれたものではありませんが、人々が集まる場所に掲げないと意味がないので、宿場や橋の袂などに設置されたそうです。

渡し・荒川放水路

架橋技術が発展していなかった時代は、川を渡る手段は渡し船というのが一般的でした。川は河口になるほど幅が広くなるので、太平洋沿いを歩く東海道では、暴風雨によって渡し船を出すことができず、足止めを食らうことが多かったそうです。東海道に限らず、街道が川に寸断されている状態は江戸時代ではよくある光景です。正確には寸断されているのではなく、渡し船で繋がっていると考えます。

当ブログの多摩川左岸百所巡礼の企画でも、渡し跡が本当にたくさんありました。他に東京の代表的な川に荒川があります。奥州街道日光街道水戸街道など、様々な街道や脇往還が荒川によって寸断されています。こちらは文字通りの寸断で、北区の岩淵水門から河口までの荒川は、正確には荒川放水路と言います。荒川放水路は大正2年から昭和5年(1913-1930年)にかけて、人工的に開削されました。ですから、江戸時代には街道として繋がっていた道を、大正時代に荒川放水路が寸断しています。

 

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