寺社探訪

寺社探訪とコラム

松陰神社

松陰神社 目次

名称・社格

松陰神社と称します。旧社格は府社です。

創建

明治15年(1882年)

御祭神

吉田松陰吉田寅次郎藤原矩方命)

御神徳

各種祈祷を受け付けていますが、教え子たちが明治維新を成し遂げたことから、大願成就のご神徳が有名です。

見どころ

広々と美しい境内の中に、松下村塾が再建されています。また、神社としては珍しく、吉田松陰の墓地が隣接しており、お参りすることができます。

アクセス

東京都世田谷区若林4-35-1

東急世田谷線松陰神社前」徒歩3分

探訪レポート

最寄り駅は東急世田谷線松陰神社前駅です。世田谷線に乗るのは数十年ぶりで、結構緊張しました。このあたりは寺社名が駅名だったり地名だったりすることが多いです。その中でも松陰神社周辺は比較的賑わっている印象です。商店街を歩いていると、松陰〇〇というお店が結構あり、地域の人々と共に神社がある様子が伺えます。ひとりの偉人を祀った神社が、町の人たちに鎮守社として支えられているのは予想外でした。

商店街を抜けると鳥居があり、神社の入口です。入口には余計なものがなく、広々として清潔感が溢れています。土曜日だったので参拝者もそこそこいるようです。吉田松陰は、歴史の授業で学びますので名前はよく知っていますが、簡単に言うと士農工商身分制度のあった江戸時代に、身分に関係なく平等に人々を教育した人です。

その教育を受けた方々が明治維新で大活躍し、吉田松陰の名を後世まで知らしめるに至った訳ですが、教え子たちが革命を起こしている時、既に吉田松陰はこの世にいませんでした。神として神社に祀られる人は菅原道真平将門など、怨念を鎮めるために祀られることがありますが、吉田松陰も獄中で処刑された身ですから、怨念を鎮めるために建てられた神社かというとそうでもなく、明治維新を成し遂げた弟子たちが、吉田松陰の人柄や偉業を称えるべく社を築いたようです。そもそもこの地は吉田松陰の出身地である長州毛利家の所領でした。この地に吉田松陰の墓を移し、その御霊を守るためにお社を建立したという訳です。

こちらは神楽殿です。昭和7年に毛利家により寄贈されました。神楽殿の前の看板は、授与品の説明が書かれています。兵学を始め教養豊かな人なので、直筆の文字が移されている授与品があります。当時の長州藩は毛利家の所領だったのですが、吉田松陰は9歳で長州藩の藩校だった明倫館の師範になるという天才ぶりです。十代は学問に生き、教授にまで昇格します。二十代には日本の兵学だけではなく外国の兵学を学び、鎖国していた日本と産業革命で花開く諸外国との大きな軍事力の差を知ってしまいます。

ペリーの黒船に圧倒された松蔭は、諸外国に対抗するために外国で直接学びたいと密航を企てるもうまくいきません。アメリカの黒船にも乗ろうとしたのですから、火がつくと熱い想いが即行動に変わる人なんですね。アヘン戦争でイギリスが中国を蹂躙した姿が、アメリカと日本の関係に重なって、藩や幕府にアメリカに対抗するように説得しますが、結局長州に戻され投獄されてしまいます。そこから、思い立ったら即行動という姿とは違う、もう一つの吉田松陰、つまり教師としての姿が始まります。

こちらは手水舎です。昭和2年に造影されたそうです。全ての堂宇に共通することなのですが、狭いところに無理やり感が無くて、スッキリ広々しています。

松下村塾山口県萩市に現存していて、世界遺産に登録されています。こちらにあるのは本物を模したレプリカです。外国からの圧力に抗おうとした吉田松陰ですが、投獄を終え、教師として松下村塾を引き継ぎます。身分の差無く教え、一方的に教えるのではなく一緒に学ぶようなスタイルで、高杉晋作伊藤博文ら多くの弟子が政治家として明治時代以降に活躍しました。

明治維新が映画でシリーズ化されたら、「明治維新1」や「明治維新2」では既に亡くなった伝説の師として名が語られ、「明治維新 beginning」では吉田松陰が主役になるでしょう。しかし、世に聞く松下村塾がこんなに小さいとは思いませんでした。学ぶということは、場所や広さじゃないんですね。

こちらの石灯籠は後の世になってから、吉田松陰の弟子たちの遺族が奉納したものです。毛利元昭、伊藤博文山縣有朋と、錚々たる名が並んでいます。松蔭が松下村塾で教えていたのはわずか二年半という短さです。投獄後は教師としての吉田松陰で、松下村塾を拠点に人材の育成に勤しみ、藩からの認可もいただくようになっていました。このあたりは本当に実力があったのですね。しかし、その同じ年(安政5年)に日米通商条約が締結され、教師の吉田松陰はまた自ら即行動する反逆の士の姿になってしまいます。そして、井伊直弼安政の大獄によって投獄され、処刑されてしまいます。生き急ぎすぎた30年の人生でした。

本殿前には記念写真を撮る用に、参拝記念のボードが置いてありました。この社殿は昭和2年から3年のにかけての境内の整備の際に建てられたもので、松蔭の弟子たちが建てた社は、この社殿の内陣として使われているのだそうです。

こちらの社務所はもっと新しくて、平成8年から9年にかけて建てられたそうです。参拝の方が多かったので、授与品や御朱印を求める方で賑わっていました。全然賑わってないじゃないかと思うかもしれませんが、なるべく参拝の方が写り込まないように、人が写らない隙を伺って撮影しているからです。

神社は死を穢れとして忌み嫌うので、通常お寺のように境内に墓地はありません。松陰神社はそもそも吉田松陰のお墓があって、そのお墓を守るための社だったので、境内の横に墓地があり、通路で繋がっている訳です。神社の境内のと墓地が繋がっているのはかなり珍しいです。弟子たちが他所に埋葬されていた松陰と烈士たちの他を、この地に改装したのですが、いよいよ幕府と薩長の争いが激化する禁門の変の後、幕府によって墓が破壊されてしまいます。明治維新を成し遂げた明治元年、弟子たちはすぐに墓を修復しました。写真の正面に写っているのが吉田松陰の墓です。墓の右側には、徳川家によって奉納された水盤と石灯籠があります。行ってみるとわかりますが、広々とした清潔感のある神社の中でも、この墓所域は空気が違っていて、心を落ち着かせる静謐さを感じます。

 

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