寺社探訪

寺社探訪とコラム

「小野照崎神社」

小野照崎神社 目次

名称・旧社格

小野照崎神社と称します。旧社格は村社です。

創建

仁寿2年(852年)に上野照崎に創建されました。江戸時代、寛永寺の創建に伴い、現在地に移転しました。

御祭神

小野篁

菅原道真

みどころ

政治・学問・芸術とマルチに活躍した小野篁の超人ぶりから、パワースポットとして有名です。かなり緑が濃い境内で、隠されたスポット感がかります。

アクセス

東京都台東区下谷2-13-14

東京メトロ日比谷線「入谷」徒歩3分

 

探訪レポート

平日に訪れましたが、有名なパワースポットなので、多くの参拝客で賑わっていました。木々が茂る境内は薄暗い雰囲気で、特別な神域に入っている感覚がします。

こちらは庚申塚です。庚申塔は60日に1度の庚申(かのえさる)の日に、講中で集まって飲食したり念仏したりしながら夜を明かし、それ3年18回続けた記念に建てる石塔です。仏教だと青面金剛神道だと猿田彦神をお祀りします。庚申塔道祖神信仰と習合して、村の入り口や辻に建てられました。日本三大庚申堂というものがあって、そのひとつ喜宝院入谷庚申堂から小野照崎神社に遷座した庚申塔で、全部で11基あるそうです。庚申塚の前には、ご祭神の菅原道真に因んで、梅の木が植えられていました。「道ひらきの梅」と呼ぶそうです。

こちらは別の入り口です。午後の日差しが結構きつい時間帯なのですが、境内の樹木にシャットアウトされています。左の小さな入り口には稲荷神社の鳥居が建っています。大通りに面した正面の入り口よりも、ゆったりしていて趣もありますね。

こちらがその稲荷神社です。このように丁重にお祀りされている訳は、この稲荷神社がそもそも当地の地主神だったからです。小野照崎神社は寛永寺建設のために上野から移転して来たのです。恋愛の神様である織姫神社が合祀されて、恋愛・仕事など結び神様として人気なのだそうです。織姫・彦星の七夕恋愛伝説はそもそも中国で生まれたものなのですが、日本の神道とも習合しているのですね。

右の二階は神楽殿となっています。左は宝物殿か神輿庫かという感じです。例大祭は5月に行われます。3年に1度本社神輿が渡御し、その他の年は各町会神輿が神社に渡御します。

富士山信仰は江戸時代にも盛んだったので、都内に富士塚を見ることも珍しくないのですが、天明2年(1782年)に築かれた小野照崎神社の富士塚は、国の重要文化財に指定されています。富士山の溶岩を運んで作った典型的な造りです。

入口で猿が合掌しているのが、何とも言えない味になっています。富士山が様々な宗教を超越した信仰の対象であることが伺えます。山中には南無妙法の石碑や、修験道の開祖である役小角が祀られています。

このように草ボーボーですが、年に2日間、6月30日と7月1日に登坂することができます。夏越の大祓と富士山の開山日に合わせて開放しているそうです。

慶応2年(1866年)建立の本殿は、関東大震災東京大空襲の両方で焼失を免れています。重厚な造りです。お祀りされているのは小野篁公と菅原道真公です。日本神話の神様ではなく、歴史上の人物ですね。小野篁は平安初期の公卿で、政治・学問・芸術のいずれも天才ぶりを発揮した人物です。身長が190cmほどあったそうですが、和歌を詠んでも絵を描いても、周囲が驚嘆するほどだったそうです。そんなマルチな人物をご祭神として、その能力を分け与えよとお祈りする訳です。語り継がれている逸話としては、駆け出しの俳優だった渥美清さんが小野照崎神社に祈願したら、国民的作品「男はつらいよ」の主人公になったというものです。

昭和を代表する囲碁棋士藤沢秀行の功績を顕彰した記念碑です。「強烈な努力」と書かれています。かなりのパワーワードで、どこまでも深く意味を探れる言葉です。数度のがん手術を受けて終末期の入院中、食事もできない病状で衰弱した体を起こし、亡くなる直前に突如として筆を執ったとのこと。そこで多くの弟子たちに向けて書かれたであろう遺言のような絶筆が、強烈な努力なのです。

小野照崎神社は凝った御朱印でも有名です。月参りと言って、毎月決まった日に神社を訪れ、その変化に季節の移ろいを感じつつ、神社との縁を固く結んでいくことを推奨しています。そのきっかけに毎月ごとに違った御朱印が授与されます。あちこちの神社を訪れることも楽しいですが、同じ神社で同じ神様に祈りを重ねることが本当の信仰の姿なのでしょう。

 

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