吉原神社 目次
名称・旧社格
吉原神社と称します。旧社格はありません。
創建
明治5年(1872年)に、吉原遊廓にもともと存在した5つの稲荷神社を合祀して創建されました。
御祭神
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
見どころ
小さな神社ですが、吉原遊廓の歴史や遊女たちを思いながら、江戸の色街の雰囲気を感じ取るお参りができます。
アクセス
東京都台東区千束3-20-2
探訪レポート
現在でも吉原には風俗店が並ぶエリアがあって、江戸時代を感じさせる建物は見られませんが、ここが遊郭だったことを思わせます。吉原遊廓は創作の舞台として魅力に溢れていて、五社監督の「吉原炎上」、安野モヨコの「さくらん」、最近では「鬼滅の刃」の舞台にもなっており、吉原に聖地巡礼したい子どもが増えて親が困っているとのこと。
最近の風俗店は呼び込みに立ってはいけないのか、ほぼ人がいない道を歩いてきました。それでも数名の呼び込みの人から声をかけられました。この業界もコロナで大打撃を受けていそうですね。そのうちに通り沿いに鳥居が建つ吉原神社が現れました。
境内に入るとすぐ右側に手水舎があります。狭い境内ですが様々なものが安置されていて、ごちゃごちゃした印象を受けます。
最奥に「お穴様」という境内社がありました。いかにもな名前ですが、土地を守る神様が祀られているとのこと。心を込めてお参りすると、必ず福が得られるとのこと。
社殿と社務所です。吉原遊廓は碁盤の目のように区画された町で、周囲にお歯黒溝が巡っていました。大門の手前と町の四隅に稲荷神社があったのだそうです。稲荷神ですので、遊郭の経営者たちが商売繁盛を願ってお祀りされたのだと思います。市杵嶋姫命は、弁財天の垂迹神とされています。こちらは遊女たちの信仰を集めていたとのことです。
正面にかつて吉原遊廓に存在した五つの稲荷神社と弁財天の赤い提灯が奉納されています。
当時の様子が伺える絵が展示されています。吉原の様子は映画やドラマに多く登場します。私の好きな医療ドラマ「Jin - 仁」にも登場します。作られたイメージかもしれませんが、だいたい吉原遊廓は同じように描かれています。
さて、吉原神社から歩いて1分ほどの場所に、吉原弁財天本宮があります。昭和10年(1935年)に吉原神社に合祀されましたが、本宮として現在も守られ続けています。
吉原神社の境外摂社ですが、仏教の要素が強いです。赤い前掛けのお地蔵様がいらっしゃいます。弁財天は神道か仏教かといえば仏教です。神社に弁財天が祀られることはしばしばあるのですが、神仏習合の名残で、現代人がわかりにくいように、明治時代の人も弁財天を祀るのは神社か寺院かわかりにくかったのではないでしょうか。
こちらは昭和35年(1960年)に建立された「花吉原名残碑」というものです。吉原遊廓の歴史を永く語り継ぐために建てられたそうです。
境内は様々な石碑や建立物でごちゃごちゃしていますが、その中央に関東大震災の慰霊のための観音菩薩像が建っています。もう完全に仏教ですね。なぜ関東大震災の慰霊碑かというと、吉原遊郭は周囲をお歯黒溝という堀に囲まれていたので、逃げられず多くの遊女が亡くなったからです。
こちらは弥勒菩薩の石像です。他にも三十三回忌までの追善供養を司る如来と菩薩の石像が境内の通路脇にご安置されています。弥勒菩薩は六七日忌を司る菩薩です。
この鳥居から奥は弁財天本宮のエリアです。平成24年に改修され、壁に描かれている絵は東京芸大の学生たちによるものです。
弁天池ということでしょうか。弁財天には銭洗いが併設されていることが多いのですが、こちらはそういう意味合いは無さそうです。どうにも作り込んだ感が強すぎて、お参りをする神聖な気持ちが削がれてしまう気がします。
遊郭だったという歴史を表現しているのか、この本宮も派手ですよね。目についたのはやはり鈴です。綱が鈴になっています。社会の中から誰かがこぼれ落ちて、その誰かのために遊郭へ流れ着いた少女。華やか過ぎる境遇で身と心を削って過ごした悲哀が、この吉原弁財天本宮の違和感ありありな外見に表現されているように感じました。
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