台風直撃が迫っていますが、東京は良く晴れていました。終戦記念日の8月15日に、靖国神社に戦没者追悼に行ってまいりました。今年は仕事で7月のみたま祭りに行けなかったので、終戦記念日に来たという訳です。同じ靖国神社でも、訪れる月によって雰囲気が違います。
11時30分頃に九段下に到着しました。靖国神社は初詣以来ですが、九段下の駅を降りて坂道を歩いていると、平和を掲げた団体の方々のビラ撒きに迎え入れられます。新興宗教団体も複数いて、カオス的な雰囲気が漂っています。今回も最大勢力は富士大石寺顕正会です。不思議なのですが、なぜ神社の入り口で勧誘活動をするのでしょうか。
中国人が放尿した事件は、中国に逃げた主犯格2人に逮捕状を出して指名手配していて、共犯者は礼拝所不敬と器物破損で逮捕されました。中国とは犯罪人引渡条約が無いので、主犯格を捕まえることは出来ないと思います。2011年にも、東日本大震災のボランティアを装って来日した中国人が靖国神社を放火しましたが、その犯人は韓国の日本大使館に火炎瓶を投げて捕まりました。しかし、韓国政府は日韓犯罪人引渡条約を無視して、中国の要請に従い犯人を中国へ送ってしまっています。
境内には右翼団体などの各団体がそれぞれに集まって、整列して国旗を掲げています。作業服(戦闘服?)の人もいれば、この猛暑にスーツにネクタイの方もかなり多くいらっしゃいました。参道の中央は一般の人々が拝殿に向かう行列を作っています。いつも正式参拝を薦めているのですが、私は終戦記念日には、この行列に並んでお参りしたい気持ちになります。
まずは行列の横を通って、手水舎でお清めをしてから、行列に並びました。意外にも若い方が多くて驚きます。オリンピック卓球の早田ひなさんが、知覧に行きたいと言って話題になっていますが、先の大戦について知識を深めたり、戦没者を悼んだりしたいと思う気持ちが素晴らしいですね。
この行列ですが、一昨年にお参りした時よりも長いです。お年寄りの方も並んでいますが、とにかく暑いので、一定以上の体力と忍耐力が無いと、お参りは難しいです。私の近くで並んでいた家族連れも、子どもさんのために離脱していました。お子様連れやお年寄りの方は、時間をずらして朝や夕方にお参りすると良いと思います。
正午が近づいて、遠くに君が代が聞こえてきました。これは、道路を挟んで反対側にある日本武道館で行われている、政府主催の全国戦没者追悼式の音声が、靖国神社境内に中継されているものです。私の並んでいた場所からはほとんど聞こえません。
君が代の演奏の後に、岸田首相がスピーチをしたのですが、それもほぼ聞こえませんでした。その後、時報が鳴り、「黙祷」という声が聞こえました。式典は武道館で行われていますが、靖国神社の拝殿に並ぶ皆さんも黙祷していました。私の隣の初老の方は合掌していました。悩ましいです。その後天皇陛下のスピーチが始まりましたが、やはり遠くて内容まで聞き取れませんでした。天皇陛下のスピーチが終わると、靖国神社の境内各所で、「天皇陛下万歳」の合唱が始まりました。
行列に並ぶこと1時間20分。やっと先頭の方に来ました。前でお参りしている方のシャツを見ていただけると、どれだけ暑かったかがわかります。周囲で一番ヤバかったのは、たぶん私です。前週の血液検査で過去最悪の数値を叩き出しており、ただ並んでいるだけですが、体力的にキツかったです。お盆明けからまた病院三昧になります。私の後ろの親子連れのお父さんが、小学生くらいの娘さんに、「兵隊さんのおかげで、毎日楽しく暮らせています」とお礼を言いなさいと教えていました。
靖国神社では「正式参拝」という名称で呼ばれていますが、いわゆる昇殿参拝のことで、本殿に上がってお参りをすることができます。神職さんの祭詞も聞けますし、きちんとお参りできた充実感も得られるので、是非オススメです。今年からご志納が5000円〜に値上げされ、敷居が高くなってしまいましたが、猛暑の炎天下で1時間以上並ぶことを考えると、正式参拝は賢い選択かもしれません。
参拝を終えると、私はいつもの奥の広場で休憩です。かき氷のお店が大繁盛していましたが、私はベンチに座って持参した水筒の麦茶をいただきました。すると、崇敬奉賛会の方々が。麦茶の無料サービスを行っていました。とにかく暑かったので、皆さん吸い寄せられるように麦茶をいただいていました。さて、帰りは靖国神社の境内にある慰霊碑などをご紹介しましょう。
いつもご紹介しますが、こちらは「さくら陶板」と言いまして、各都道府県の土を使って、地元出身の陶工が焼き上げた桜の花の作品を、このように展示しています。左が奈良県、右が三重県です。「靖国で会おう」と遠く南の海で亡くなられた方々を、生まれ故郷の土と桜の花がお迎えするという、素晴らしいアイデアです。
こちらは慰霊の泉です。戦争で遠く太平洋に散った方々が思っていたのは、祖国の母と清水だったとのことで、清らかな水を捧げる慈愛に満ちた母を、抽象的に表現したそうです。正面に立って眺めていると、母親が包み込むように水を湛えているように見えてきました。
慰霊の泉の裏側に、「戦跡の石」があります。太平洋戦争という名の通り、日本とアメリカの戦いは太平洋の支配権を争う戦いでした。サイパンや沖縄や硫黄島は有名ですが、ほとんど聞いたことのない島々でも、多くの方々が日本に残した大切な人の未来のために戦っていました。
全国戦没者追悼式の式辞で岸田首相が言っていましたが、まだ南の島に日本兵の遺骨が眠っていて、祖国に戻れていない状況です。おそらく激戦地だった場所に遺骨があっても、それが誰の遺骨なのかはほとんど判別できないと思います。故郷に戻れるかどうかわからないような遠い島で眠る人々に、せめてそこにあった石を通じて、何かの思いが伝われば良いと思います。
こちらも戦跡の石です。ブーゲンビル島、ウェーキ島、グァム島、レイテ島アルベラ、レイテ島リモン岬、コレヒドール島、マニラ郊外ボニファシオ、沖縄、硫黄島の石が展示されています。
こちらは、昭和38年(1963年)に「戦没者等の妻に対する特別給付金支給法」が制定された記念に、遺族会婦人部から奉納された時計塔です。左にあるさくら陶板は秋田県です。
九段下から靖国神社方面に向かい、最初の大鳥居に行かず、右に曲がるとこちらの慰霊碑があります。なぜ神社の境外にあるのかよくわかりませんが、特別感が溢れています。
濠北方面戦没者慰霊会と書かれています。濠は、オーストラリアのことですので、その北側、インドネシア、パプアニューギニアあたりのことを指すそうです。
境内を出まして、少し歩きます。物々しい雰囲気ですが、今年も夕方には反天連のデモが予定されていますので、このように重装備で警戒しています。とあるニュース記事に、8月15日の靖国神社はフェスティバル化しているというのがありました。
とても面白い記事でしたので、リンクを貼っておきます。
さて、皇居のお濠沿いの遊歩道を進みます。この暑い中を走る皇居ランナーさんがいてびっくりです。13時半ごろですが、同じ方向へ向かう人々がちらほらいらっしゃいます。
ここは千鳥ヶ淵戦没者墓苑です。先の大戦で海外で亡くなられて、遺骨の特定ができず、遺族に引き渡されることのない遺骨を納めるために建設された施設です。いわゆる「無名戦没者」のお墓です。
入口を入ると休憩所の前にさざれ石がありました。このさざれ石は岐阜県の天然記念物に指定されていたものが寄贈されたものだそうです。さざれ石は小さな石が集まって大きな巌(いわお)になるという、まさに君が代の歌詞そのものです。ネット上には「さざれ石警察」という人々がいて、有名人の国歌斉唱の際に「さざれ」と「石」を繋げて歌わないと誹謗中傷されてしまいます。幼い頃はさざれ石もそうですが、「巌となりて」も、「岩、音鳴りて」と思っていました。
手水鉢がありましたので、両手を清めて参拝に向かいます。
こちらが六角堂という墓苑のシンボルです。これからイベントがあるようで、音響のチェックをしたり、パイプ椅子を並べたりと、結構な数の人が集まっていました。
広場の左右にこのような石碑が建っています。左右共に御製です。左の石碑は昭和天皇の御製で、右の石碑は上皇の御製です。シンボルの六角堂の中央には、大きな棺型の陶器があり、その中に昭和天皇が下賜された骨壺が入っています。その骨壺は陶棺の中で参拝者の目に見えません。墓苑を運営する奉仕会は、昭和天皇のお気持ちが参拝者に見えるようにしたいと、御製を賜ることをお願いしたそうです。
左側で菊が一輪100円でいただけます。安いと思うでしょうが、おそらくこの菊は売り場と献花台を何往復もするので、赤字にはならないと思われます。その他、籠花のご供花がお供えされていました。中央の一対は「内閣総理大臣 岸田文雄」でした。他には各県の遺族会が出していて、なぜか日蓮宗からも出ていました。菊を献花台にお手向けしながら、瞬時に観察しました。当ブログを読んでいただいている方にはおわかりのことと存じますが、私が気にしているのは「パンパンするのか?」ということです。
中央に米・酒・水・塩が三宝に乗せてお供えされていたので、神道に見えます。しかし、菊の花で献花するのは仏式に思えます。周囲の方々は合掌する方が100%で、パンパンする人はいません。しかし、お供え物は神道だしなぁ、と逡巡した挙句、私は合掌もせず、パンパンもしないで、ただ頭を下げて祈念する、という手段を編み出しました。
ここは前屋という、六角堂のある広場の入口です。ここにベンチがあったので、暑さ凌ぎにしばらく座っていました。すると隣にふたり組の男性がやってきました。ふたりは今日ここで出会ったようで、80代の日本人と20代の韓国人という異色な組み合わせでした。話題は老人が父親や親戚から聞いた戦争当時のリアルなお話です。一方的に日本の老人が話をしていましたが、韓国の若者は大袈裟なリアクションをしながら、楽しそうに老人の話を聞いていました。
私が靖国神社の崇敬奉賛会に入っていた二十数年前あたりですと、7月のみたままつりや8月の終戦記念日は、戦争経験者や遺族会の方々が観光バスで大挙して参拝していました。靖国神社はコスプレ会場でもフェスティバルでもなく、本物の当時の軍服を着た人たちが、失した仲間の霊と再会する場所でした。遠く南の戦場を駆け巡った日々を思い、大声で軍歌を謳える場所でした。今となっては、もう戦争を経験したであろう人たちを見かけることもありません。靖国神社は戦争で戦った人たちに感謝する場所であり、彼らが守ろうとした日本の未来を生きている姿を見てもらう場所なのだと思います。
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