名称・寺格
日蓮宗 威光山 法明寺 鬼子母神堂 と称する法明寺の飛地境内にある堂宇です。
創建
永禄4年(1561年)山村丹右衛門が掘り出した鬼子母神像を東洋紡という寺院に納めたことが始まりです。東洋紡が大行院に改称し、法明寺に合併されます。
本尊
ご利益
安産・子安
みどころ
縁日や地域イベントなどの行事になると、参道から出店が並び、多くの人で賑わいます。特に10月に行われる御式会は、3日間で30万人以上が集まる盛大な行事となっています。
アクセス
東京都豊島区雑司が谷3-15-20
JR山手線「池袋」徒歩15分
探訪レポート
風情のある参道を進みます。実は雑司が谷鬼子母神を訪れるのはこの1年で3回目です。いずれも当ブログのレポートの写真を撮るために訪問しましたが、前回と前々回は行事が行われていて、参道から境内の奥の方まで出店と参拝者で溢れていました。あまりの人の多さに撮影は不可能で、三度も訪れることになってしまいました。様々な学者が研究材料にするのも当然というか、寺院の規模を凌駕する巨大な地域コミュニティというか、とにかく多すぎる人が集まる鬼子母神は恐るべき人気です。
3度目にして平穏な境内の様子。山門はなく、そのまま境内にダイレクトインです。お百度石がありました。結構距離がありますね。鬼子母神は神と書くので神社だと思っている方も多いと思います。鬼子母神はインドの神様が仏教に取り込まれた神様です。仏教的には大黒天や帝釈天などの他の天部の神と同様に仏教の守護神という扱いです。
手水舎です。以前訪問した等々力不動尊と同様に、この鬼子母神堂は法明寺という寺院の飛地境内にあるお堂なのです。おそらく、鬼子母神堂なら知っているという方がほとんどだと思います。永禄4年(1561年)に雑司の役(下級役人)についていた山村丹右衛門という方が、清土(現在の文京区目白台)辺りから鬼子母神像を掘り出して、東洋紡という寺院に納めました。その東洋紡が大行院に改称し、法明寺が合併したという歴史があります。
そもそもこの地は「稲荷の森」と呼ばれていた場所で、鬼子母神堂が建つ以前から稲荷神が祀られていたとされています。武芳稲荷と称します。
武芳稲荷の鳥居に囲まれるように、大イチョウが恭しく祀られています。樹齢700年とされていますが、衰えているように見えません。高さは33m、幹の周囲は11mあるとのこと。東京都の天然記念物に指定されています。
こちらが武芳稲荷神社です。お祀りされているのは、宇迦之御魂命です。穀物の神様として古くからこの地に祀られていました。境内社にしては非常に立派なお堂ですが、こちらは昭和42年に建立されたそうです。五穀豊穣、出世、厄除などの御神徳がいただけます。
鬼子母神堂は江戸時代に入ると、寛永2年(1625年)に社殿の造営が始まります。安産・子育ての神として、武家から庶民まで多くの信仰を集めました。将軍家の御成りもあったそうです。このお堂は、拝殿、相の間、本殿という3つの構造になっている「権現造り」です。寛文6年(1666年)に現在の本殿の開堂供養が行われた記録があります。拝殿と相の間は元禄13年(1700年)に広島藩主浅野光晟の正室満姫野紀信により建立されました。当時は幕府が寺請制度で増えすぎる寺院の建築制限を掛けていて、江戸中期の華やかな建築様式と、装飾部を質素に誂えた工夫と、広島から呼び寄せいた大工による広島風の建築など、非常に珍しい諸条件を兼ね備えた建物として、国の重要文化財に指定されています。国宝の一歩手前の建築物とうことですね。
お賽銭箱が床下収納されているパターンです。このタイプをいくつか見たことがありますが、やはり足元にお金を落とす行為には抵抗感があります。堂内は内陣の左側に祈祷や授与品の受付があります。堂の中にいるとそれだけで歴史が降り注ぐというか、特別な空間なのだと肌で感じることができます。
こちらは法不動堂(のりふどうどう)です。不動明王というと真言密教のイメージが強いですが、日蓮宗でも不動明王を祀る寺院があります。日蓮宗の本尊である大曼荼羅を見ると、南無妙法蓮華経と書かれた字の周囲に、小さな字でたくさんの諸仏の名が記されています。日蓮は比叡山でも高野山でも学んでいたので、曼荼羅本尊の中に不動明王を入れたそうです。
こちらは大黒堂です。大黒天をお祀りしています。大黒天も日蓮宗寺院で多く見られます。こちらはお堂の半分がお団子屋さんになっっています。土日だけ営業しているそうです。鬼子母神に千人の子がいたことに由来して、たくさんの子宝に恵まれるようにと「おせん団子」して鬼子母神堂の名物となっているそうです。たしかに以前訪れたときは凄い行列で大黒堂に近づけないほどでした。
当ブログでよく書いていますが、私は日蓮系の新興宗教の家に生まれたので、実家の仏壇には曼荼羅本尊が掛けられています。曼荼羅本尊には多くの諸仏の名が記されていて、その中でも子どもだった私は「鬼子母神ってなんだろう?」とよく考えていました。鬼の子と母の神様? 我が家ではこういう疑問を持つことをタブー視されている空気があって、信仰については盲目的であることが常識になっています。とにかく正しい、絶対正しいという感じ。話が逸れましたが、その幼き私の疑問が、今目の前( ↑ )にいます。こちらが鬼子母神像。鬼子母神は500人(千人、1万人とも)の子がいて、それらの子を育てる力を養うために人間の子を食べるということで、人々から恐れられていました。そこで釈迦が鬼子母神の子のひとりを隠してしまいます。鬼子母神は半狂乱になって探し回るが見つからず、釈迦に救いを求めます。そこで釈迦は千人の子のひとりを失ってそれだけ嘆き悲しむなら、たったひとりの子を失う母の気持ちはいかばかりかと鬼子母神を諭します。鬼子母神は釈迦に帰依し、仏法(法華経)の守護神となり、安産と子育ての守り神となったという逸話です。字の通り鬼形の像も多いですが、こちらの像は穏やかな顔です。本殿の本尊も穏やかな顔で吉祥果(みかんのような実がなる植物)を持ち幼児を抱いているそうです。
こちらは別の寺院ではなく、本殿の真裏に天明8年(1788年)に建立された妙見堂です。稲荷信仰、不動尊信仰、鬼子母神信仰と、宗派の枠を超える信仰が1か所に集まったような寺院ですが、更に北辰妙見信仰が加わります。妙見信仰はインドの菩薩信仰と中国の北極星・北斗七星信仰が習合して日本に伝わったものです。妙見菩薩は国土を守り、長寿延命のご利益があるとされています。密教や陰陽道とも習合しているので、形相は一定ではなく、童子形のものや武神形のものなど様々です。四臂あるものもあり、人々の所業を記録するために筆と紙を持っています。鬼子母神堂の妙見菩薩像は、亀に乗った天女だそうです。他にも日蓮宗の大本山である池上本門寺の妙見菩薩が亀に乗った天女で、珍しい訳ではないそうです。
三度目にしてやっとレポートできましたが、個人的には初回や二度目の賑わった境内も魅力的に感じました。信仰のレベルは人それぞれでも、寺院は人が集まって成り立つのだという原点を感じることができる場所です。
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