浄土宗 知恩院 目次
名称・寺格
華頂山 知恩教院 大谷寺と称する、浄土宗の寺院です。寺格は浄土宗の総本山です。
創建
承安5年(1175年)に法然によって創建されました。
本尊
法然上人
みどころ
広い境内に多くの堂宇があります。三門や鐘楼堂など、大きさに圧倒されます。法然上人が説いた仏教とその時代を感じることができる境内です。
アクセス
市営地下鉄東西線「東山」徒歩10分
探訪レポート
東大路通から知恩院へ向かうルートは、古門を抜けて華頂通を進むルートと、新門を抜けて知恩院通を進むルートがあります。二つのルートの間には、知恩院の塔頭寺院や浄土宗が運営している学校、浄土宗の宗務庁などがあります。こちら( ↑ )は、新門と知恩院通です。緩やかな坂を登ってくる感じです。写真左に見えるのが知恩院の宿坊で和順会館と言います。和順会館に宿泊すると、知恩院での朝のお勤めに参加することができます。
この後雨が降るので空が超どんよりですが、新門から知恩院通を上がるルートですと、大きな三門が目の前に現れます。流石に観光客がたくさんいますね。
一方、古門から華頂通を上がるルートですと、黒門に到着します。こちらから境内に入ることもできますが、裏門のような位置づけなので、中に入らずに三門まで横に移動した方が良いです。
黒門から三門へ移動している途中もうひとつ閉まっている門があります。「本願寺発祥之地 蓮如上人御誕生之地 親鸞聖人旧御廟所 元大谷崇泰院」と書かれています。また「大谷本願寺故地」と刻まれた石碑も建っていました。親鸞も蓮如も浄土真宗の高僧ですが、ここは親鸞の末娘が文永9年(1272年)に父の遺骨を安置するための御廟堂を建立した場所なのだそうです。
徳川二代将軍秀忠によって建立された知恩院の三門は、横幅50mという大きさです。木造二重の山門としては国内最大で、国宝に指定されています。山門の脇に傘付きの提灯台が置かれているのですが、こちらも規格外の大きさでした。楼上は宝冠釈迦牟尼仏像を中心に、十六羅漢像がご安置されている仏堂となっています。秋の特別公開期間では、楼上内仏堂を拝観することができます。
三門から境内までは男坂と女坂があります。こちらは階段が急な男坂です。金戒光明寺のレポートでも触れましたが、金戒光明寺と同じく、知恩院も徳川家康が有事の際に砦として活用できるようにしていました。この( ↑ )写真だけ見ると、お城の中の造りに似ています。ちなみに女坂も階段ですが、階段が苦手な方にはシャトルバスが運行しています。また車椅子でも法務棟内部のエレベーターを使わせていただくことができます。
七百五十万霊塔という塔です。昭和33年(1958年)に、法然上人の750年遠忌を記念して建立されました。現在は国立博物館で行われている「法然上人と極楽浄土」などの浄土宗開宗850年の各慶讃事業が行われています。
使用禁止になっていますが、手水舎です。
本堂にあたる国宝、御影堂です。浄土宗開宗850年記念事業のひとつとして、「不断念仏会」が行われていました。自由参加でしたので、本堂に上がらせていただき、しばらくの間正座して僧侶の声を聞きながら、南無阿弥陀仏と心の中で一緒にお唱えしました。厨子の中で見えませんが、御影堂には法然上人の御影がご安置されています。御影堂の正面からは外に向かってお手綱が伸びています。
お手綱は御影堂正面の常香炉の後ろ角塔婆に結ばれています。この角塔婆に触れることで、本尊である阿弥陀如来や法然上人と、より強くご縁を結ぶことができます。
御影堂の真正面に宝佛殿があります。宝佛殿は個別に納骨できるロッカー式の納骨堂となっています。また、生前の宗派を問わず納骨することができ、施主家のみの供養のご回向もお願いすることができますし、同じ月の命日の方々と合同で行われるご回向に参加することもできます。
こちらは阿弥陀堂です。本尊は阿弥陀如来座像で、2.7mあります。大きいなぁと思いますが、概ね座像は2.7m前後のものが多いです。当ブログで訪問した江戸六地蔵も、すべて約2.7mでした。これは如来の大きさが丈六(4.85m)とされていて、座像ですから、その半分+αということで、2.7m前後になるそうです。現在の阿弥陀堂は明治43年(1910年)に再建されたものです。阿弥陀堂に向かって手を合わせると、ちょうど西向きになり、そのまま阿弥陀如来のいる西方極楽浄土に向かって手を合わせることになります。
宝佛殿の横の坂を上がります。石畳の階段になっています。この上には知恩院の名物ともいえる「アレ」があります。2023~2024年のNHKの「ゆく年くる年」で放送されていた「アレ」です。
想像を膨らませ過ぎた結果、「でかっ!」という衝撃がありませんでした。きっと先入観なしで観ると、驚きの大きさだと思います。この鐘は寛永13年(1636年)の鋳造で、鐘楼も鐘楼堂も国の重要文化財に指定されています。16本の子綱を持った僧が突棒を引いて、中央の親綱を持ったひとりの僧が鐘に背を向けて、体ごと後ろに倒れ込むように突きます。
階段を下りて境内に戻ります。秋ですが蓮の葉がまだ元気ですね。池に架かる橋を渡ります。
橋を渡ると階段があり、その上は納骨堂になっています。先ほどの宝佛殿が個別ロッカー式の納骨堂で、こちらは合祀タイプの納骨堂です。こちらも生前の宗旨に関係なく埋葬することができます。
こちらの経蔵も国の重要文化財です。経蔵の内部は非公開ですが、八角輪蔵が備えられていて、徳川二代秀忠が寄贈した宋版一切経が納められているそうです。私は東京芝の浄土宗大本山増上寺の経蔵を見学したことがあります(毎年東京文化財ウィークに公開されています)が、経本を手に取って開いて見る訳でもないのに、厳格な重々しさを感じる空気でした。
写経塔と書かれています。写経が奉納されているのでしょう。
大方丈の唐門は、国の重要文化財に指定されています。寛永18年(1641年)の建立で、勅使門と呼ばれています。
ちょっとためらいを感じてしまう階段ですが、入り口に法然上人の銅像があるので、ためらったことを無かったことにして上がり始めます。法然は9歳の頃に父を殺害されたが、遺言で仇討ちを禁じられ、仏門に入ったとされています。よくある天才少年のパターンで、師となる僧が「私では才能が無駄になる」と次々と師となる僧が変わり、最終的には比叡山の高僧を師としたが、権威主義を嫌い、比叡山を出て京都奈良の多宗派の僧とも交流しました。その後法然は南無阿弥陀仏と声を出して唱える称名念仏を広めて、衆生を救済することを目的として動き始めます。当ブログでもレポートした金戒光明寺がスタートの地です。そこからは天台宗VS法然浄土宗の争いが激化していき、法然は讃岐に流罪になってしまいます。
階段上にある勢至堂です。塔頭寺院のように門や手水舎がありますが、ここはそもそも大谷禅房と呼ばれており、流罪から赦されて京に戻った法然が暮らした地であり、終焉の地でもあります。享禄3年(1530年)の再建で、地温の中で最も古い建造物として国の重要文化財に指定されています。扁額に「知恩教院」と書かれています。これは後奈良天皇から賜った勅額で、ここから知恩院と名付けられました。
勢至堂の境内からさらに階段を上がると蓮華堂があります。この先さらに一段あがったところが法然上人の御廟があります。天台宗VS法然浄土宗の対立は法然の死後も続いていて、直弟子たちが流罪になり、法然の御廟は僧兵たちに破壊されてしまいます。弟子たちは法然の亡骸を移動させながら守り、最終的に十七回忌の際に荼毘に付しました。
奥に御廟があり、手前の建物は拝殿となっています。拝殿に上がって、御廟に向かって念仏できるようになっています。ここまで来ると、観光地のざわめきも無く、静寂な空気が漂っています。
勢至堂に立っていた「一枚起請文」の説明文です。これは法然が亡くなる二日前に、法然の教えの真髄を後に続くものへ示した文章です。この中には本当の仏道の歩み方が簡潔に書かれています。学び得た仏教の知識があっても、智者として振る舞わず、自分を愚者と見做し、無知な人と同じ立場で念仏を唱えるべき、という内容です。これを法然が遺訓として直弟子に示したというのが凄いです。
勢至堂の横にあるこちらは紫雲水と呼ばれています。法然入滅の際に、紫雲が水面に現れ、芳香が漂ったという伝説があります。
勢至堂の横を抜けて裏側に行くと、墓地になっています。千姫は徳川二代秀忠の長女です。母は金戒光明寺に供養塔があった崇源院です。千姫は徳川家康の孫で豊臣秀頼に嫁ぐという、戦国時代に翻弄された運命を背負っていました。
さらに奥へ進むと濡髪大明神という神社がありました。御影堂を建立した際に、そのために住処を失った狐が、門主に頼んで代わりに用意してもらったのがこの濡髪の祠なのだそうです。狐が髪の濡れた童子に化けて現れたので、濡髪と称したのだそうです。そもそもは火伏せの神様でしたが、濡髪が女性を連想することから、縁結びの神様として親しまれているそうです。
南無阿弥陀仏と唱えるとき、その意味や成り立ち、背景や極楽浄土へ導かれる理屈など、ちゃんと理解して唱えなければいけないのだと思っていました。しかし法然の教えは、そんなことはさて置いて、ただ念仏を唱えることでした。なるほど、でも、なるほど、いや、と何周も巡ってしまいます。
ーーーーーーーーーーーーーーー